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耳をすませば、目黒のさんま

ESSAY

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 ミートソーススパゲッティが食べたくなって食べた。

 食事も終盤に入りあとフォークに3巻きくらいだな、という頃に登場したかすかな違和感があった。僕はスパゲッティをすっかり巻き切って綺麗になった皿を眺めて思った。

 あ、これじゃなかった。ミートソースじゃなかった、と。かすかな違和感とはこれだったのである。

 僕が食べたかったのはナポリタンだった。正確にいえば僕はミートソーススパゲッティが食べたいと心で思ったけど、実は身体が要求していたのはナポリタンであり、若干のずれが生じたわけである。

 食べることは本来とてもプリミティブなことだ。あれこれ考える必要はない。体は正直だ。基本的には生きていくのに必要なものは身体が教えてくれる。ただ耳をすましてその声を聞いて素直に従えばいいだけなのである。

 野菜が食べたいと感じればトマトやレタスを齧ればいいし、肉が食べたいと思えばステーキを、魚が食べたいと思えばさんまでも焼けばいい。それが身体が必要としている栄養なのだ。

 手術の後で体力が無くなっているとする。よし、これから回復するぞって時に、ゴリゴリのスナック菓子、例えばカールのチーズ味を要求することはないのだ。病み上がりの肉体にカールおじさんの出番はない。もし仮にお菓子ばっかり身体が要求するんです、という人があったら一度テレビやインターネットなんかの過剰な情報源を絶ってみたほうがいい。自分の身体の内なる声を聞くには、環境がやかまし過ぎるか、詐術的に消費を刺戟する情報で耳がふん詰まりになっているかのどちらかである。

 さて、僕は数あるスナック菓子のなかでカールチーズ味が一番好きである。

 絶妙なカール具合(曲がり)はもちろん開発者の努力の賜物だ。あの形状によって抜群の食感を生み出すことに成功している。それからメインキャラクターのカールおじさん。カールにいさんだったり、カールおばさんだったりしたら、やっぱり違う。カールおじさんであっても、角刈りでスーツなんか着込み小脇にセカンドバッグだったら、いくらあの愛嬌のある顔であのテーマソングを口ずさんでいても、もう”カールさん"みたいになって親近感がなくなって気軽に食べれない。"おばあちゃんのぽたぽた焼き”だってあれがおじいちゃんだったら、何がぽたぽたしてるかわからないし、あの不二家の傑作カントリーマアムにしたってカントリーダディになると、しっとりやわらかっていう感じが削がれて、焦げてカッチカチになってしまう。

 駄菓子王のうまい棒を忘れていた。タヌキだか猫だかに似たドラえもんコロ助を足して割ったような風貌のキャラクターとそのネーミングがやっぱり絶妙なのである。あれが、うまい”某"だったりしたら、何が原料なのかわからない恐怖感で誰も手に取らない、子供には絶対食べさせない。うまい”棒”でも実際ちょっとわからないところをあのスチャラカキャラクターが全力でフォローしている。めんたい味と迷うが僕はこの菓子でもチーズ味をやっぱり買ってしまう。ただ棒状になっているだけで、はっきりいって味はほとんどカールである。(そういう意味では2020年東京オリンピックのエンブレム問題なんかの比ではないと僕個人は思っている)

 僕はきっと、あのチーズじゃないけどものすごくチーズ感のある駄チーズ味にやられてしまっているのだ。

 

 本筋に戻る。ミートソーススパゲッティとナポリタンは親戚みたいなものだし、今回はボタンの掛け違いをするみたいに少しずれただけのようである。

 ただ、これがナポリタンではなくカツ丼だったわ、なんてことになったら一大事である。いよいよ焼きが回ったということで、ボタンの掛け違いどころではなくて、フリフリのスカートを頭に被ってしまうくらいにもうずれまくっていることになるから考えなくてはならない。カールおじさんうんぬん言ってる場合ではない。

 これ以外にも”ずれ”というのは結構ある。新聞を読みながら珈琲に手を伸ばすと、手の甲の部分が当たり、あちゃっとなり湯飲みをコトンとやってテーブルの上は珈琲浸しになってしまう。思ったよりも足が回らずに扉の角に小指どころか足首全体をぶつけて悶絶し、返す刀で頭を壁にぶつけてみたりする。こういうのはしょっちゅうだ。自分の思っている手足の位置感覚や動きと実際の距離感がマッチングしていないのである。

 一時期テレビニュースで中国の子供がぴったり壁と壁の間に挟まって抜け出せなくなっていたり、土管に巻き寿司の具みたいに詰まっていたりして、キッズはあほだな、自分のサイズ感がまるでつかめておらん、などと小バカにしていたのだが、考えてみれば僕も同類なのだった。そのうち僕もカメラを持って夢中になって、路地へ路地へと進むうちにそこらの街の壁の狭間で身動きが取れなくなって、道行くギャルに助けを求めていたりするかもしれない。

 

 今年も目黒に秋刀魚がやってくる。さんま祭りである。古典落語の『目黒のさんま』に因んでというのが始まりだ。落語は知らなくても、さんま祭りは知っているなんて人もあるかもしれない。それくらい目黒界隈の人々にとって馴染みの秋の風物詩になっている。

 毎年、暇が合えば会場にいってみる。食べたことは一度もない。僕はせっかちな性分だから、並んで行列を作るなんて事が出来ない。とにかくものすごい人なのである。スーパーで買っても300円、400円くらいのものだ。あれだけの人が行列を作るのだから、頑張って並んで待ちに待って食べるさんまはやっぱり格別なんだろうと想像でき、少し羨ましい。

 会場では20メートルくらいの細長い列を何本か作って、ブロックで囲んだ焼き場に炭を入れ、金網を敷いてその上にさんまが一列に並べられる。そこに焼く係の人と食べるのを待つ人がさんまを挟んで対面する格好で座る。さんまがなければ集団お見合いのようである。

 そこらじゅうでジュウジュウパチパチやっている。食べるのを待ちきれないのか、焼く係りの人の顔とさんまを交互に見やったりしている人もいる。時々、さんまから落ちた油に火がついて直火になるのを防ぐため、炭に水をピューっとかける。すると炭とさんまの香ばしい匂いを巻き込んで水蒸気が勢いよく舞上がる。それをそばで眺めているだけで体はもちろん心まで全身スモークされてしまう。

 そうなるともう我慢ができない。人間がそうなのだから、そこらにウロウロしている猫なんかはきっとたまらないだろう。サザエさんの家どころか魚屋に命がけで飛び込みたい衝動に駆られているはずだ。

 そんなことをしなくてもよい僕らはそそくさと会場を後にして何処ぞの定食屋に入って昼からビールをやり、大根おろしとのタッグは最強だな、と言ってみたり、ポン酢をかけるやつがいたら、醤油だろボケ、なんて話をしながらさんまをつつくのである。そういうさんまもやっぱり美味しい。

 猫諸君、ついてきたらお頭と少し身をつけた骨くらいはくれてやるぜ。秋刀魚は目黒に限る。

 

2015.9.19記