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ネリチャギうつつ

ESSAY

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 昨日もよく呑んだ。

 目を覚ますと傍にはタバコの空箱が転がっていた。わかば(20代の頃、僕はこの銘柄をよく吸っていた)だ。

 「そうか、僕はタバコを吸ったのか」と思う。禁煙して一年ほどになる。

 なんだかここ一週間ほどもうむちゃくちゃに吸いたくなっていたのだ。禁煙には何度も失敗している。どうってことはない。

 まったく覚えていないが、呑みすぎればいつものことだ。握りしめて少しへしゃげ、捻りあげせんみたいになっている箱を一瞥しとりあえず起き上がって、坂を降りた。白い毛並みのしっぽを振った愛想のいい犬がいる。

 僕はコンクリート打ちっ放しののっぺりした家に入る。庭に面したリビングには老夫婦が仲良く座っていた。その夫婦を僕は知らない。

 壁一面開け放していて見渡す限りの平原。快晴の空までよくみえる。

 どこからともなく秋風に乗って羽のついたかわいらしいカエデの種子が部屋のなかへひとつふたつとくるくると旋回しながら舞い込んでくる。

 遠くには大きな木が見える。風流だな、と感じていたら、いつの間にかものすごい数の種子が吹き込んできていて、視界を埋め尽くす。アメリカなんかの麦を食いつくすバッタの大群みたいになってビシビシ身体にぶつかってくる。

 僕が四苦八苦している中、老紳士は相変わらず湯飲みを両手で包み、その湯飲みからは湯気が緩やかに上がっている。

 僕が老婦人に「これは大変ですね」というと「毎年のことですから」とにこやかに応える。

 僕はいてもたってもいられずその部屋を飛び出した。

 なんだかとんでもないな、と思ってそれから、あ、これ夢だ、と気づいたのである。

 タバコはともかくあのカエデの種はやりすぎだ、アホでも気付くぜ。とそこで目が覚めたのである。

 僕は辺りを見回す。タバコはなかった。少し残念な気がした。自転車を置いたままの気がする。取りに行かなくてはならない。だがその場所が何処だかわからない。ふとコートを買おうと思う。

 下生えの中ところどころに木の生えた土手を歩く。切り株なんかもある。その大きなひとつに腰を下ろす。今日も天気がいい。何本かトーテムポールが立っているのが見える。それらを眺めながら、それにしても不思議な夢だったなー、と思う。

 これもまた夢なのであった。入れ子状、夢のマトリョーシカである。お尻がかゆいな、と目覚めた。別に粗相はしていない。今度はちゃんと自分の家の自分の布団にいる。枕元にはかろうじてバランスをとって積まれた書籍の塔がある。窓からは光が差し込んでいる。もう突然に坂を降りたり、土手を歩かない。それらはまるでテレビ番組みたいに編集されているようだった。まったく違和感なく物事が進行し、場面が切り替わっていくのは夢特有の時間の流れという気がする。いちいち気にして疑っていたら何も進まない。

 夢というのはほとんど覚えていない、朝起きた時は覚えていてもハミガキしているうちに徐々に輪郭を失って口をゆすぐ段には、もうほとんどが曖昧になっている。何よりもあれだけ確かだったリアリティが無くなってしまって、まるで香りの飛んでしまったただ苦いだけのコーヒーのようだ。そしてそれすらも消えてしまい全ては忘却の彼方である。

 

 バーに女の娘が大きなスーツケースを引きずって入ってくる。しばらく後、僕とその娘はいま行ってきたばかりの国の旅の話や下らない馬鹿話をして盛り上がっていた。

 「そうだ、お土産に買ってきたキムチがあるよ」といってスーツケースを床に置いて中身をガザゴソひっくり返している。

 彼女はキムチを見つけ出し「みんなで食べよう」と言ってカウンターに戻り、バーテンのお兄さんとやりとりしている。

 僕は相当に酔っ払っている。開きっぱなしになったスーツケースを引っ掻き回して、下着をひとつつまみ上げる。

 足音が背後にしたと思った次の瞬間、後頭部に雷撃を感じた。目の前を明滅する無数の星の中をヒールの尖ったサンダルがすっ飛んでいって転がった。僕は頭を抱えながら振り返る。彼女が仁王立ちして少し怒った表情をし、だけど優しい眼で僕にかわいらしいメンチを切っている。

 戻ってきた彼女が僕にネリチャギを放ったのであった。ネリチャギとは空手の技、かかと落としのことである。幾らか前、そう、K-1全盛の頃、アンディ・フグが得意技としていたものだ。自分より体の大きな相手にもガンガン打ち込んでいたのを思い出す。

 さて鮮やかにそんな大技を決めた彼女は満足そうに「かっかっか」と高笑いしている。喰らった僕にしても何だかおかしくて一緒になって笑った。

 だけど、あれは一撃必殺の決め技、あくまでテレビや競技の中での話であって、日常でしかも茶髪のかわいらしいワンピース姿の小娘にネリチャギを喰らったのは僕くらいじゃないだろうか。

 嘘のような現実というのもあるのである。

 その後、ギャラリーも含めみんなでおいしいキムチを食べた。ただそれはきっと僕だけ、みんなにはない鉄分の味がしたのであった。