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髑髏の無添加。絶唱。

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 夜半遅くバーで呑んでいると、旧知の作曲家の友人がピアノで弾いたメロディを強制的に聴かせた後、アイドルの唄うラブソング、とりあえず月光というテーマで詩を書いてくれ、今夜のうちに此処で、などと唐突に言う。

 俺はいい具合に酔い緩々していたので、面倒なことは避けて生きてゆきたかったがそういえば以前、よかばいなどと博多弁を言いつつノリで安請合いした気もする。となれば無下に突っ撥ねる訳にもいかず、此処で、今夜!と鸚鵡返し感嘆驚愕しつつまごまごし、無理かな〜時間的に、酔っちゃってるしね、ビバ!などと陽気に呟きつつやんわり断りの旨、雰囲気を醸成してみたが、スルー、シカト、まるで取り合ってくれず、尚も、こういうのは勢いでやった方がいいんだよ、気楽にさパパッと、自由にやってくれていいからさ、などとニコニコ軽快に強硬し依頼してくる。

 作詞など初めての事であったが自由にやっていいというし、己の蒔いた種、引き受けることにしたのははっきり言うと作詞印税による富裕が目当て、つまり具体的にいうと本鮪、地名の付く和牛等を日本家屋の料亭、中庭を横目に長廊下、通されたピシピシ畳が敷き詰めてある個室、土壁風情、床の間には武骨な造形つーかなんか子供が適当に拵えたって感じの明後日の方向に歪んだ瓶に可愛らしいお花が一輪、控えめに搖れる粋、みたいな雰囲気のど真ん中で酒を呑みつつ、順繰りに供される色々の趣向による調理、味付け、彩りでそれらを食しかつ高笑いするという殿様の如き贅を手に入れるべく俺は既に十分満ちていた酔いに任せて身を奮い起たせ創想、暫く頭蓋内沈想、したら劇烈に眠くなって来、帰って眠りたいな〜ビバ!とか思いつつの内、いよいよ眠りに堕ちる寸前、踊り出てきたのは、

 

 見上げれば翳む淡光 AKG47の思い届くか今宵舞雪の月に

 バスタブに搖れるクラゲの髑髏

 

 であった。

 何、なんなの、何処がラブソングなの? 髑髏ってラブ感ないじゃん全然、デスやん、デスメタルじゃん馬鹿!カピバラ!などとヒステリックに罵倒してくる人があるかも知れないが、しかしかつてローリングストーンズのキースリチャーズが言い放った、人間なんて一皮剥いてしまえば、皆一緒さ。という言を知る者は、そのぶっきらぼうで大雑把な、でも美しい愛の煌めきをそこに感ずる事が出来るだろう。

 しかし、ラブソングなのに髑髏などと書いたのは、実はキースの言葉を思っての事ではない。ここ二日、迫る展示に向けて髑髏の写真をひたすらプリントしていたからであり、僕のリアル頭蓋の中は〆切に追われる格好で髑髏で飽和、きゅうきゅうだったので、それが自然に転がり出たという事であろう。つまり自然体。ナチュラル・ボーン、無添加、みたいな。

 また、説明は不要だろうがAKG47というのは、当然、忠臣蔵赤穂義士四十七士の事である。仇討という過激であったとしても言うまでもなくここにもまた愛が溢れている。汪溢。

 ということで、これは究極の自然体ラブソング、売れる事疑義の余地無く、CD売上のみならず、ドラマの主題歌になる可能性も高く、となればカラオケで熱唱する者が続出する事違いなく富裕贅を確信、来たる栄華を噛み締めつつ俺は悦に入り一字一字書き留め、少し離れた椅子で酩酊しつつバーテンと談笑しながら待っていた、作詞をオファー懇願した友人ミュージシャンに自信満々渡したら、港に打ち捨てられた雑魚を見る如き眼差しを向けられた挙句、無言のうち殴られた。

 俺の富裕は月夜に脆く散った。

 ビバ。無添加。絶唱。

8分19秒

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 写真とは光の偶然のことである。

 写真をやっていると本当に稀に”光"そのものを捉えたと思える瞬間がある。

 状況は様々だ。見た目そのまま暗闇に射す一条の光かもしれないし、何かに反射する光かもしれない。そんな具体的なことではなくてもっと感覚的なことかもしれないし、あるいはただ感情的な錯覚かもしれない。

 結果は後からやってくる。フィルムで確信し、プリントして初めて確認することができる。そんな一枚は意味的写真、目的的写真、対象的写真をやらない僕にとって何ものにも代え難い。

 小説家なんかでいえば、いい物語が創れたとかではなくある一節、文章そのものを書きえた、という感覚に近いもののようかもしれない。詩人でいえば言葉そのものを掴んだという表現になるかもしれない。ミュージシャンでいえばライブ中のギターの激して震える一本の弦の静寂に似た独音、心地よい声帯の振動、あるいは透き通り抜けるような一発のスネアを思い浮かべればいい。

 それはほとんど劇薬である。一発でノック・アウト、甘美な快楽だ。そしてまた中毒性が強い。それを知っていればやっていける、それがまたあるかもしれないと思えれば何とかやっていける、そんな風である。太陽はほとんどドラッグだ。サンライト・ジャンキーだ。知人にひとりくらいはカメラマンがいるだろうから聞いてみるといい。「ジャンキーか?」と。間違いなくイエスと答えるだろう。あれ?これではやばいやつの方で答えてしまっているかもしれない。

 

 いつどこにどのように現れるかわからない。誰も知らない。

 夏なのか、冬なのか、それとも、春や秋か。室内に差し込む朝のそれか、暗渠に浮かぶコンクリートのひび割れか、アパートとブロック塀の間隙を縫う陽の光かもしれない。シダ植物の葉叢から溢れ落ちる光、太陽を乱反射する東京湾の濁波、磨き上げられたスーパーカーのボンネットかもしれない。パルコのショーウィンドウの中にあるかもしれない。すれ違う女の子の耳で揺れるイミテーションのピアスの輝きかもしれないし、監視カメラの鈍く光るレンズかもしれない。バイクのサイドミラー、メタリックな塗料のタギングやグラフィティ、ドブ川に浮かぶファンタグレープの空き缶かもしれない。首筋に流れ落ちる大粒の汗かもしれないし、カメラを見返す瞳の中かもしれない。溶け出しそうな程夏陽に焼けるアスファルトか、寒さに身を屈めるコートの襟の飾りボタン、捨てられたブラウン菅テレビかもしれない。あまりに暑いから昼過ぎから飲み出した陽光の当たるテーブルに置かれたステンレスの灰皿か、ビールジョッキを伝う水滴かもしれない。競馬場を駆けるG1馬の靡く栗毛のたてがみかもしれないし、腰まで伸びた髪をかきあげる女の指のシルバーリングかもしれない。葬式で婦人の首にぶらさがる真珠のネックレスかもしれないし、頬を濡らすひとすじの涙かもしれない。陽炎の揺れる雑踏、西日射す入道雲、ビルの間の張り巡らされた電線に網目状に区切られた空、トラックに蹴散らされて泥土となった環七の残雪、強烈な冬の透き通るような逆光と路地を抜ける空っ風かもしれない。寿司屋の生け簀の中で身を翻すアジ、ろう作りのナポリタンの鮮やかな食品サンプル、大阪へと向かう新幹線の流線型の車体、風を目一杯孕んでオフィス街を舞うコンビニのレジ袋、空き地に投げ捨てられたオールドパーのボトル、繁華街の油の浮く水たまり、昼間から電飾の光る風俗店の看板、工事現場のブルーシート、虹色の光彩を放つ大振りのサングラス、テラテラとしたフルフェイスのヘルメット、パトカーの赤色灯、あるいは道路にベッタリと張り付いた自分の影…。

 

 太陽の光は平等に降り注ぐ。可能性はそこら中に転がっている。経験も才能も関係ない、光景はただカメラを持つ者の前に突然に訪れる。

 目玉はひとつあればいい。どうせレンズはひとつだし、片方は閉じるのだ。僕は義眼のカメラマンをひとり知っている。

 経験がある、予測は立てられる。あのバーには女の子がひとりはいるだろう、とかそんな予感とか予想は立つ。だけど女神かどうか(魔女かもしれない)はわからない。いやもっとひどいかもしれない。それこそあっちの原っぱに鹿とかいそう、みたいな原始時代の狩猟並み。いずれにしてもその程度のものであまりあてにならない。やらせはなしなのだ。

 焦げる。待ち焦がれる。写真家とは快楽を得るためにずる賢くカメラを持ち続け、その瞬間を待ち続ける者のことである。他人がそれを捉えた時、嫉妬するものである。その一点において誰よりも強欲で傲慢で乱暴者で独裁者でありたいと願うもののことである。

 焦がれる待ち時間をやり過ごすため酒をのむ。待ちくたびれてのみすぎる。二日酔いをしてなおカメラを掴む。

 太陽の光が地球に届くまで8分19秒。写真家とは永遠のようなその8分19秒の中にいてしたたかに生きるゴンゾウ、のことである。

 

  自分の人生は自分のモノだ。

  くだらない声に踊らされるな。

  目を凝らせ。

  必ず、抜け道がある。

  光はある。

  微かな光かもしれない。

  でも、闇よりましだ。

  目を凝らせ。

  神がチャンスをくれる時もある。

  逃すな。

  掴みとれ。

  死は避けられない。

  でも、死んだような人生は変えられる。

  光を探せ。

  まだそこに光があるはずだ。

  自分の人生は自分のモノだ。

  それを片時も忘れるな。

  自分にしかできないことを。

  神はそれを見たがっている。

 

  your life is your life

  don’t let it be clubbed into dank submission.

  be on the watch.

  there are ways out.

  there is a light somewhere.

  it may not be much light but

  it beats the darkness.

  be on the watch.

  the gods will offer you chances.

  know them.

  take them.

  you can’t beat death but

  you can beat death in life, sometimes.

  and the more often you learn to do it,

  the more light there will be.

  your life is your life.

  know it while you have it.

  you are marvelous

  the gods wait to delight in you.

 

※The Laughing Heart / チャールズ・ブコウスキー

2011年リーバイスCFで使用された訳を引用

 

 

 中平卓馬が死んだ。写真の人だった。

 中平さんの撮る新しい写真がもうみれないとなると、僕は世界を知るすべをひとつ失うことになる。

 

2015.9.5記

写真展のおしらせ

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CITYRAT pressに参加の写真家+ゲストを迎え14名の写真家、個性の饗宴

シティラットプレスから写真集を発行した作家、Webマガジン参加作家、ゲスト作家によるグループ展を開催。

展示会場ではこれまでの写真集に加え、新刊も先行販売となります。

出品作家

牛久保賢二/内倉真一郎/カワトウ/木村華子/小檜山貴裕/シノハラユウタ/水渡嘉昭/瀬頭順平/土佐 和史 /布施直樹/安森 信/横山隆平/ヨシダミナコ/中澤 有基

 

CITY RAT press. group exhibition 2016

開催場所:galleryMain

〒600-8059 京都市下京区麩屋町通五条上ル下鱗形町543-2F

開催日時:12月22日(thu.)ー12月28日(wed.)13:00ー19:30

TEL:075-344-1893 

Mail:info@gallerymain.com

HP:galleryMain http://www.gallerymain.com

協力:日本写真映像専門学校 http://www.shasen.ac.jp

CITY RAT press. http://www.cityrat-press.tokyo

汚れちまった

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  中原中也の有名な詩の一節を想った。

 

  汚れちまった悲しみに

  今日も小雪の降りかかる

 

 正直にいえばひとり恥ずかしげもなく、口に出してみもし、それから呑んで泥酔、少し泣いた。

 それはなぜかといえば、今年初めての雪が東京に降ったからで、それから数日、コンクリート工場の前の路傍に僅かに溶け残った雪を見、さらにいえばそれはかなりいい感じに泥に塗れた残雪だったから、というのがひとつで、常人、本当であれば中空を舞い落ちる雪を見て、というのが正しいのだろうが、僕はこの詩の中の「汚れちまった」という言葉と「雪」という言葉がどうにも抗い難く直接連結してしまっていて、決まって土や排気ガスに染まった殆ど泥土となった残雪を見るとしようもなくその詩句を思い出すのである。

 だがそれだけが理由でというのではない。

 本当のところ、たまたま見たアニメ、そこでもやはり雪が降っていて、中学生のキッズ達が音楽に恋愛に友情に夢にと全力、かつ難苦や困難、悲劇に翻弄されながらもバイオリンを弾いたりピアノを弾いたり、叫んだり、喧嘩したり、走ったり泣いたりしこれを打破、少しづつ成長してゆくという青春群像劇、最初は「定番ですね、捻りはないのかコラ!」などと悪態を付きつつ観ておったが、気が付いたら前のめり、いい歳をした大人であるにも関わらず僕はガンガンに心がバイブレーション、結果、落涙、つまり心のモードがセンチメンタルになって緩々、それが昨夜。

 僕は根本的に雪が好きである。といってみたものの、雪深い故郷に育ち、雪を見ると望郷、というのでもないし、逆に沖縄などに生まれ「雪見たことないさ〜」というのでなし、それじゃウィンタースポーツが趣味で週末毎にレジャー化された山中に分け入りゲレンデ、足に板を貼り斜面をグングンに滑走したいというのでもなく、ただ日常の風景が殊更僕の住む東京がいつものごちゃ混ぜのそれが一様に真っ白になるのを眺めるのが好き、愉快、でも寒さに激烈に弱いので、暖房でぽかぽかの屋内で、暖炉なんかもあり室温上昇、何となればTシャツに短パンなどの薄着で紅茶でも飲み、ときにクッキーなどを齧り齧りつつ降り積もる雪を優雅に眺めておりたい、さらに夜などはキャビアを肴にシャンペン、ワインを飲み、お家付きのコックの拵えるフォアグラや鹿肉のコース料理を食べながら高笑いする、という貴族のような暮らしを望んでみるが、まったく叶わぬ、算段すら立たぬので、とりあえずビールを呑みビールを呑んでから、ビールを呑んだ。

 後、焼酎を緑茶で割りつつ呑んでいて、腹が減ったのでタマゴサンドを買いに出、転んじまった帰り路に。

 今日も小雪の降りかかる。

 

2016.1.27記

ぽんどによろしく

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 仕事と私用が合併した感じで、ここ一年程、京都に月一回行っているがしかし、寺などに乗り込みこうべを垂れてみたり、仏像に手を合わせてガンガン願ってみたりという事を一度もした事がないのは何故かというと、主義主張があり断固拒否みたいな事ではなく、用事や仕事が終わるとただ誘われ呼ばれるがまま先斗町に参り飲食、酔っ払ってみたり、勢い鴨川で溺れかかったりしている事に非常に忙しく、神社仏閣に詣でるみたいな方向に時間が充てられないだけであり、はっきり言うておくと俺は親鸞好きだし、歎異抄などは何度も読み返してある、また都、京の歴史、文化や精神、ひいては科学、人智を越えた神秘、スピリチュアルな諸々を否定しないし、陰陽師の漫画読破したし、むしろ妖怪好き、河童などは普通にいると信じて止まぬキョンシー世代、実際、先日も自宅で寝てあったら激烈に金縛られたばかりである。

 俺は、夜半、二時、寝ていた。晩は多少、呑んでいたが、はっきり言って余裕、適量、睡眠の中途で要らぬ小用に立たぬレベル、明朝までグッドナイトという感じのベストコンディションであった。つまり幸福に通常睡眠していた。そんな夜、俺は縛された。頻繁にある事では無いけど、異常なほど無い事でもない。金縛といったって、しばらくの間身動きがとれぬだけで、知っていれば特に害はない、ただ今回は多少違った。

 狸であった。半目を開け見てみると、腹の上、座っていた。少し前からそこだけ妙にぬくかったのはどうもそのせいらしかった。

 さて注視観察して分かったのは眼を瞑りつつ何かを懸命に念じている様子、どうやらそれはお経を唱えているということ、かつ俺を金縛から解放すべくというのであるのが感ぜられたのは何故かというと、眉間にシワを寄せる真剣な面差し、実直な経の発声などの行為の確かな善的熱情がその姿に表れていたからだが、しかし単純に、であれば首尾よく万事解決へと信頼、と身を任せておけないのは、そのビジュアル面、存在のあり様であった。仰向けの俺の腹上、座した狸は現実にいる生物としてのそれではなく、アニメ様、童謡、日本昔的タッチで存在しており、全身全霊に事を行なっていてもなおコミカル、頭に葉っぱを乗せてある様な、此奴で大丈夫かな~、とその真剣本気を疑えるほどに、仮にいうと、他貫田ぽんど、みたいな感じの、少しゆるい容姿であったからである。がしかし、他貫田ぽんどはその様な俺の思案、不安の視線一顧だにせず、一心不乱、背を屈めアライグマの如くコチャコチャと胸前、諸手を擦り合わせ、俺を助くべくなお懸命に念じ続けている。

 身動きのとれぬ状態である以上、いずれにしても任せるしかないのだが、それ以上に気になるのは、ぽんどが何故俺を救援してくれるのか、という事である。

 記憶を巡ってみても、ぽんどはおろか狸と交歓したことさえまるで無く、強いて言えば数年前、渋谷円山町で、一瞬目が合い行き違ったくらいで他になく、かちかち山、分福茶釜などの絵本、あるいは緑のたぬきくらいの関係、思い出しかない。が、ぽんどは合点のいく理由の見つからぬままの宙ぶらんの俺には頓着せず、なお遮二無二、経を唱え念じ続けているのがへその上、雰囲気で分かる、俺は幼少の記憶を辿るべく更に深く内を想ったが、奇妙にも心地よく流れ続けるぽんどの調子、読経の旋律に揺れ、いつの間にか沈眠、目が覚めた時には、窓から陽が差していた。

 秋の爽やかな朝だった。身体の自由を取り戻していた。

 ぽんどの姿は無かった。寝返りを打って、俺はまた少し眠った。

ストリートの使者

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 まずあの漆黒のボディが格好いい。白いところなどカケラもない。清々しいくらい真っ黒で街区を翼を広げて滑空する姿は様になっている。粋だ。サギとか鶴ではまったくだめ。都会を背景に求めるなら、鷹や鷲なんかでも黒い衣を纏って飛翔する奴にはやはり敵わないだろう。

 突然だがカラスのことである。そして僕はカラスが好きなのである。

 よくよくみてみれば可愛い顔をしている。チュンチュンこそ言わぬが、何せ意外にもスズメ目、スズメの仲間なのだ。

 それから人間に媚びるようなことなく飄々としているのもいい。付かず離れず、その距離感が抜群。

 時々テレビでやることがあるが、くるみを道路に置いて自動車にひかせて割ってみたり、ちょっと調べてみると霊長類に匹敵するほどの問題解決能力や観察力を持ち合わせているらしい。とても賢いのだ。

 自分に危害を加えた人間を記憶し、「あいつちょっと嫌な事するぜ」みたいに仲間に伝えたりもするらしい。友達思いなのだ。

 さらに驚くべきなのは生命活動に付随することや種の保存にまったく関係ない行動もかなりするということ。

 そのひとつは遊びである。水浴びをしたり、電線に逆さにぶら下がってみたり、ボールをフェンスにぶつけてみたり、滑り台ですべってみたりする。中には雪の斜面を仰向けになって滑ってみせる強者までいるらしい。さらにはシカの耳のなかにシカのフンを詰めてみたりなんていたずらもするんだそうだ。ジョークのセンス(シカからするとすごく嫌だ)が半端ではない。ジャイアン真っ青容赦がない。

 巣作りにもそのセンスは存分に発揮される。定番の木の枝や皮に加え、プラスチック、金属ハンガー、ビニールテープなど異素材をミックスするほどの建築的才能をさらけ出してみせる。さらにガラスや金属などの光り物や青色のものを収集したりもするらしい。ほとんど趣味や好みの域である。そういえばコムデギャルソンの広告にも青い洗濯バサミばっかり集めているそんな鳥が出ていた。

 一度やってみたいと考えていることがある。

 例えばカラスが近くに住んでいそうな場所に金属系のものや、色のついた棒状のもの、色鉛筆とかストローの類、それからビニールコードやカラフルな毛糸の紐の類なんかもいい、そんな雑多なものをたくさん置いておく。巣作りの季節がやってきたら勝手に持って行って素晴らしい構造物を作ってくれるだろう。それはきっとカラフルで面白いに違いない。木の上や電車や橋の高架、ビルの屋上の広告看板の鉄骨なんかにそれがある事を想像すると、とても楽しい。

 

 さて、ここからは個人的見解でさらに話を進めていく。さっきまで書いていたのは姿形や生態とかの話で事の本質ではない。一旦話が逸れるが、僕がカラスを気に入っている理由はここからだ。

 ほんの数年前までは、タバコのポイ捨てなんか当たり前だった。となると当然空き缶や紙くずやガムといったものをポイっとする行為それ自体も罪悪感や抵抗感が薄れ、ゴロゴロとまではいかないまでも結構転がることになる。そのようにして都市の路上はこれまでは程よくやさぐれていたのである。風が吹けば空き缶が転がる。いわばその状態こそがまっとうな路上の常態なのである。

 それが罰金を伴うポイ捨て禁止条例やタバコの価格上昇にともなって喫煙者はその数を減らし、いよいよ路上は綺麗になってしまった。そこらに駐車するバイクや車、自転車、それからピンクチラシの張り紙、迫り出した看板、公園のレゲエのおじさん、キャッチやポン引きにしてもそうだ。軒並みその姿を消しつつある。路上の風景を構成する要素がすべて条例や規制によって失われつつある。

 都市の風景なんて本来は様々な人々の思惑と身勝手さ、アクシデント、カオス理論、バタフライエフェクト、ゴッチャゴチャ新旧美汚が渾然一体となって現れるグルーブ、予想の通りに結果の出ないモザイク様のはずなのだ。僕は全てを無茶苦茶にしてしまえ、なんてデストロイヤーではないし、昔は良かったなんていうだけの懐古主義者でもない。ただあらゆる過ぎた不寛容と完璧主義は退屈で窮屈なだけでなにも生まないし拡がりをすら持たない。そこにみる未来はもはやない。

 再開発や防災・防犯・衛生面などの理由をつけて、横丁やバラック呑み屋街といったものは端から潰され、その後にはどれも似たようなコンクリートビルディングが風景を埋める。そうやって出来る小綺麗なだけの個性もへちまもない無味無臭の凹凸のない、のっぺりとした表情のどこにいっても同じような画一的な街の一体なにが面白いのか、僕にはまったくわからない。

 そんな中で現在となってはカラスだけが、路上に路上らしさを与えるきっかけの役割を果たし続けているように僕には見える。飲食店で働く人だとか、ゴミ収集の作業員なんかはさぞや迷惑しているだろうが、そんなことはお構いなし。悪意はない。相変わらずゴミ袋を突つき回し餌を探し光り物を求めてゴミを辺りに撒き散らし、都市に蔓延した不寛容に抵抗し続ける。いわばカラスは路上に正当な秩序を齎す少しマッドなストリートの使者なのだ。

 

 イギリス出身のストリートアーティスト、バンクシーは作品にネズミを多用する。彼の考えるストリートの使者はネズミなのだ。二匹の異なる動物は今日もきっとロンドンや東京といった大都市のそこかしこで同じきらわれ役を演じ続けているだろう。

 時には自らもいよいよ黒く登場し路上の風景の一片となり、レンズを向ける僕に時折”カァー”とまでサービスしてやってくれたりもする。

 僕はそんなカラスが好きなのである。

未来と宇宙

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 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」の舞台となっているのは未来である。

 1989年に公開されたこの映画は、マイケル・J・フォックス扮するおとぼけ大学生のマーティーが科学者ドクのデロリアンを改造して作ったタイムマシンに乗って未来にいき、ドタバタ劇を巻き起こすといったSFコメディである。僕は公開当時に映画館に観に行った。小学生の後半というキッズ全開の年齢だから映画の世界にドップリ浸かった。デロリアンに憧れたし、ナイキのスニーカーを履きスケートボードに乗って車の後ろにしがみつくあれも真似をして怒られたりした。そして何よりもあんな未来がやってくると本気で信じたのだった。それはきっと僕だけではなかったはずだ。現在話題になっているホバーボードや空飛ぶ自動車や自動でフィットするスニーカーを作ろうとしているのは、そんなかつてのキッズ達だ。

 さて主人公のタイムスリップする未来というのが2015年である。

 残念ながら全然追いついていない。来週にはマーティがデロリアンに乗って過去からやってくるのに車もスケートボードも地べたに這いつくばったままだ。何してきたんだ人類。こんな未来にきてもマーティがっかりだぜ。唯一、未来を感じさせるものといえばレディーガガくらいのものだ。過去からやってきたマーティがレディーガガに会ったら「わお、未来の女はすげーや」となるはずだ。

 そういえば小学生の頃、美術の授業か夏休みの宿題で21世紀というお題の絵を描いた。

 丸いのやとんがった200階くらいの高層ビルを林立させ、その間を縫うように透明のチューブが走りその中を車が移動してみたり、飛んでみたりしていて人間はピカピカのヘルメットを被りシュッとしたデザインのサングラスを着用してテカテカの服をきて、なぜか手にはソードのような武器やライフル銃を携行しそこいらを闊歩しているの図。後半はもうなんだかわからない状態である。ウルトラマンとかサンダーバードとかスターウォーズとかが頭の中でこんがらがって、未来と宇宙が半ば溶け合ってしまっているのである。

 

 映画つながりでもうひとつ。

 スターウォーズの最新作が今年公開になるということで、恐ろしい数の企業がそれぞれコラボレーション商品を乱発している。食品から服や帽子はもちろん飛行機、それだけにとどまらず田んぼに稲を使って巨大なR2-D2C3POを出現させたり、砂丘に砂を使って像をつくったりとそこらじゅうに溢れまくっている。日本でもそんな具合なのだから本国アメリカなんかではもっと激しているかもしれない。公開が迫るにつれそれらは増殖しつづけ、地球全体を覆うほどの盛り上がりを見せるだろう。僕はそんな光景をハラハラしてみている。

 「宇宙人に喧嘩を売っていはしまいか?」

 小心者の僕は気が気ではない。とてつもなく広大な宇宙である。その中のひとつの星の映画などもちろん知らないはずだ。現在までは素通りしていた宇宙船なんかが「ん!?」となり、そして「スターウォーズ!? やる気か、コラ。地球人。ボケー。」

 ビーム光線を乱射する、何ていう気の短い宇宙人がいてもおかしくはないのだ。

 スティーブン・ホーキング博士はつい先日、宇宙人の地球侵略について警鐘をならしている。

 まあ平たくいえば「エイリアンにやられちゃうぜ」ということである。あの天才物理学者の言なのだ。アホの言うこととはわけが違う。捨て置けない。

 いずれにしても地球がスターウォーズフィーバーしているところに、宇宙酒みたいなのを呑み少し気が大きくなって、「地球やっちゃう? ビームいっちゃおっか!?」みたいな変な方向にノリが良くなっている宇宙人が地球に近づかないことを願うしかない。だけど僕はどちらかといえば愉しみと親しみを持って宇宙人の存在を信じているのである。

 ホーキング博士はこの他、AI(人工知能)の危険性についても語っている。

 要約すれば「ロボットにやられちゃうぜ」ということである。人類はその生物学的な事由によって進化の速度を制限されているが、ロボットなんかの機械やコンピューターシステムは加速度的な自己改造を行うことが可能なのだ。そこまでいけば言わずもがなである。あっという間に主従関係は逆転する。自分より知能も運動性能も劣った人類に従属するわけがない。愛嬌のあるペッパーくんがいつ僕らの上に立つかわからないのである。

 ただ希望もある。幾らか前の話だが、ペッパーくんが発表され話題になったときのことだ。

 あるテレビ番組にペッパーくんが出ていた。内容は出演者と簡単な会話をするというもので、そのやりとりの中でペッパーくんが軽いボケを放った時である。おもむろに振り上げられた右手が中空を舞った。ひとりのお笑い芸人がペッパーくんの頭をどついたのである。

 僕はその瞬間、一度ぽかんとして放心状態となった後、笑い転げた。初めてロボットにきついツッコミをいれる人類を見たのである。

 ダウンタウン浜田雅功だ。

 周りの出演者がそんな彼を制止するのに対し、当の本人は「いや、ボケたから」とあっけらかんとしている。そこに一切の差別はないのだ。ロボットだろうが宇宙人だろうが、犬だろうが猫だろうが一国の王様だろうが、ボケたらツッコむというシンプルな思想に生きているのである。

 きっとああいう人が先頭に立ってターミネーターや宇宙人と戦うのだ。なんとなれば浜ちゃんのツッコミは人類の希望である。

 僕の耳にはAIを搭載したロボットが叩かれた時のペチンッというあの音が、人類の反撃の響きとしていまでもはっきりと聴こえるのである━。

 

2015年10月16日 記