ストリートの使者

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 まずあの漆黒のボディが格好いい。白いところなどカケラもない。清々しいくらい真っ黒で街区を翼を広げて滑空する姿は様になっている。粋だ。サギとか鶴ではまったくだめ。都会を背景に求めるなら、鷹や鷲なんかでも黒い衣を纏って飛翔する奴にはやはり敵わないだろう。

 突然だがカラスのことである。そして僕はカラスが好きなのである。

 よくよくみてみれば可愛い顔をしている。チュンチュンこそ言わぬが、何せ意外にもスズメ目、スズメの仲間なのだ。

 それから人間に媚びるようなことなく飄々としているのもいい。付かず離れず、その距離感が抜群。

 時々テレビでやることがあるが、くるみを道路に置いて自動車にひかせて割ってみたり、ちょっと調べてみると霊長類に匹敵するほどの問題解決能力や観察力を持ち合わせているらしい。とても賢いのだ。

 自分に危害を加えた人間を記憶し、「あいつちょっと嫌な事するぜ」みたいに仲間に伝えたりもするらしい。友達思いなのだ。

 さらに驚くべきなのは生命活動に付随することや種の保存にまったく関係ない行動もかなりするということ。

 そのひとつは遊びである。水浴びをしたり、電線に逆さにぶら下がってみたり、ボールをフェンスにぶつけてみたり、滑り台ですべってみたりする。中には雪の斜面を仰向けになって滑ってみせる強者までいるらしい。さらにはシカの耳のなかにシカのフンを詰めてみたりなんていたずらもするんだそうだ。ジョークのセンス(シカからするとすごく嫌だ)が半端ではない。ジャイアン真っ青容赦がない。

 巣作りにもそのセンスは存分に発揮される。定番の木の枝や皮に加え、プラスチック、金属ハンガー、ビニールテープなど異素材をミックスするほどの建築的才能をさらけ出してみせる。さらにガラスや金属などの光り物や青色のものを収集したりもするらしい。ほとんど趣味や好みの域である。そういえばコムデギャルソンの広告にも青い洗濯バサミばっかり集めているそんな鳥が出ていた。

 一度やってみたいと考えていることがある。

 例えばカラスが近くに住んでいそうな場所に金属系のものや、色のついた棒状のもの、色鉛筆とかストローの類、それからビニールコードやカラフルな毛糸の紐の類なんかもいい、そんな雑多なものをたくさん置いておく。巣作りの季節がやってきたら勝手に持って行って素晴らしい構造物を作ってくれるだろう。それはきっとカラフルで面白いに違いない。木の上や電車や橋の高架、ビルの屋上の広告看板の鉄骨なんかにそれがある事を想像すると、とても楽しい。

 

 さて、ここからは個人的見解でさらに話を進めていく。さっきまで書いていたのは姿形や生態とかの話で事の本質ではない。一旦話が逸れるが、僕がカラスを気に入っている理由はここからだ。

 ほんの数年前までは、タバコのポイ捨てなんか当たり前だった。となると当然空き缶や紙くずやガムといったものをポイっとする行為それ自体も罪悪感や抵抗感が薄れ、ゴロゴロとまではいかないまでも結構転がることになる。そのようにして都市の路上はこれまでは程よくやさぐれていたのである。風が吹けば空き缶が転がる。いわばその状態こそがまっとうな路上の常態なのである。

 それが罰金を伴うポイ捨て禁止条例やタバコの価格上昇にともなって喫煙者はその数を減らし、いよいよ路上は綺麗になってしまった。そこらに駐車するバイクや車、自転車、それからピンクチラシの張り紙、迫り出した看板、公園のレゲエのおじさん、キャッチやポン引きにしてもそうだ。軒並みその姿を消しつつある。路上の風景を構成する要素がすべて条例や規制によって失われつつある。

 都市の風景なんて本来は様々な人々の思惑と身勝手さ、アクシデント、カオス理論、バタフライエフェクト、ゴッチャゴチャ新旧美汚が渾然一体となって現れるグルーブ、予想の通りに結果の出ないモザイク様のはずなのだ。僕は全てを無茶苦茶にしてしまえ、なんてデストロイヤーではないし、昔は良かったなんていうだけの懐古主義者でもない。ただあらゆる過ぎた不寛容と完璧主義は退屈で窮屈なだけでなにも生まないし拡がりをすら持たない。そこにみる未来はもはやない。

 再開発や防災・防犯・衛生面などの理由をつけて、横丁やバラック呑み屋街といったものは端から潰され、その後にはどれも似たようなコンクリートビルディングが風景を埋める。そうやって出来る小綺麗なだけの個性もへちまもない無味無臭の凹凸のない、のっぺりとした表情のどこにいっても同じような画一的な街の一体なにが面白いのか、僕にはまったくわからない。

 そんな中で現在となってはカラスだけが、路上に路上らしさを与えるきっかけの役割を果たし続けているように僕には見える。飲食店で働く人だとか、ゴミ収集の作業員なんかはさぞや迷惑しているだろうが、そんなことはお構いなし。悪意はない。相変わらずゴミ袋を突つき回し餌を探し光り物を求めてゴミを辺りに撒き散らし、都市に蔓延した不寛容に抵抗し続ける。いわばカラスは路上に正当な秩序を齎す少しマッドなストリートの使者なのだ。

 

 イギリス出身のストリートアーティスト、バンクシーは作品にネズミを多用する。彼の考えるストリートの使者はネズミなのだ。二匹の異なる動物は今日もきっとロンドンや東京といった大都市のそこかしこで同じきらわれ役を演じ続けているだろう。

 時には自らもいよいよ黒く登場し路上の風景の一片となり、レンズを向ける僕に時折”カァー”とまでサービスしてやってくれたりもする。

 僕はそんなカラスが好きなのである。

未来と宇宙

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 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」の舞台となっているのは未来である。

 1989年に公開されたこの映画は、マイケル・J・フォックス扮するおとぼけ大学生のマーティーが科学者ドクのデロリアンを改造して作ったタイムマシンに乗って未来にいき、ドタバタ劇を巻き起こすといったSFコメディである。僕は公開当時に映画館に観に行った。小学生の後半というキッズ全開の年齢だから映画の世界にドップリ浸かった。デロリアンに憧れたし、ナイキのスニーカーを履きスケートボードに乗って車の後ろにしがみつくあれも真似をして怒られたりした。そして何よりもあんな未来がやってくると本気で信じたのだった。それはきっと僕だけではなかったはずだ。現在話題になっているホバーボードや空飛ぶ自動車や自動でフィットするスニーカーを作ろうとしているのは、そんなかつてのキッズ達だ。

 さて主人公のタイムスリップする未来というのが2015年である。

 残念ながら全然追いついていない。来週にはマーティがデロリアンに乗って過去からやってくるのに車もスケートボードも地べたに這いつくばったままだ。何してきたんだ人類。こんな未来にきてもマーティがっかりだぜ。唯一、未来を感じさせるものといえばレディーガガくらいのものだ。過去からやってきたマーティがレディーガガに会ったら「わお、未来の女はすげーや」となるはずだ。

 そういえば小学生の頃、美術の授業か夏休みの宿題で21世紀というお題の絵を描いた。

 丸いのやとんがった200階くらいの高層ビルを林立させ、その間を縫うように透明のチューブが走りその中を車が移動してみたり、飛んでみたりしていて人間はピカピカのヘルメットを被りシュッとしたデザインのサングラスを着用してテカテカの服をきて、なぜか手にはソードのような武器やライフル銃を携行しそこいらを闊歩しているの図。後半はもうなんだかわからない状態である。ウルトラマンとかサンダーバードとかスターウォーズとかが頭の中でこんがらがって、未来と宇宙が半ば溶け合ってしまっているのである。

 

 映画つながりでもうひとつ。

 スターウォーズの最新作が今年公開になるということで、恐ろしい数の企業がそれぞれコラボレーション商品を乱発している。食品から服や帽子はもちろん飛行機、それだけにとどまらず田んぼに稲を使って巨大なR2-D2C3POを出現させたり、砂丘に砂を使って像をつくったりとそこらじゅうに溢れまくっている。日本でもそんな具合なのだから本国アメリカなんかではもっと激しているかもしれない。公開が迫るにつれそれらは増殖しつづけ、地球全体を覆うほどの盛り上がりを見せるだろう。僕はそんな光景をハラハラしてみている。

 「宇宙人に喧嘩を売っていはしまいか?」

 小心者の僕は気が気ではない。とてつもなく広大な宇宙である。その中のひとつの星の映画などもちろん知らないはずだ。現在までは素通りしていた宇宙船なんかが「ん!?」となり、そして「スターウォーズ!? やる気か、コラ。地球人。ボケー。」

 ビーム光線を乱射する、何ていう気の短い宇宙人がいてもおかしくはないのだ。

 スティーブン・ホーキング博士はつい先日、宇宙人の地球侵略について警鐘をならしている。

 まあ平たくいえば「エイリアンにやられちゃうぜ」ということである。あの天才物理学者の言なのだ。アホの言うこととはわけが違う。捨て置けない。

 いずれにしても地球がスターウォーズフィーバーしているところに、宇宙酒みたいなのを呑み少し気が大きくなって、「地球やっちゃう? ビームいっちゃおっか!?」みたいな変な方向にノリが良くなっている宇宙人が地球に近づかないことを願うしかない。だけど僕はどちらかといえば愉しみと親しみを持って宇宙人の存在を信じているのである。

 ホーキング博士はこの他、AI(人工知能)の危険性についても語っている。

 要約すれば「ロボットにやられちゃうぜ」ということである。人類はその生物学的な事由によって進化の速度を制限されているが、ロボットなんかの機械やコンピューターシステムは加速度的な自己改造を行うことが可能なのだ。そこまでいけば言わずもがなである。あっという間に主従関係は逆転する。自分より知能も運動性能も劣った人類に従属するわけがない。愛嬌のあるペッパーくんがいつ僕らの上に立つかわからないのである。

 ただ希望もある。幾らか前の話だが、ペッパーくんが発表され話題になったときのことだ。

 あるテレビ番組にペッパーくんが出ていた。内容は出演者と簡単な会話をするというもので、そのやりとりの中でペッパーくんが軽いボケを放った時である。おもむろに振り上げられた右手が中空を舞った。ひとりのお笑い芸人がペッパーくんの頭をどついたのである。

 僕はその瞬間、一度ぽかんとして放心状態となった後、笑い転げた。初めてロボットにきついツッコミをいれる人類を見たのである。

 ダウンタウン浜田雅功だ。

 周りの出演者がそんな彼を制止するのに対し、当の本人は「いや、ボケたから」とあっけらかんとしている。そこに一切の差別はないのだ。ロボットだろうが宇宙人だろうが、犬だろうが猫だろうが一国の王様だろうが、ボケたらツッコむというシンプルな思想に生きているのである。

 きっとああいう人が先頭に立ってターミネーターや宇宙人と戦うのだ。なんとなれば浜ちゃんのツッコミは人類の希望である。

 僕の耳にはAIを搭載したロボットが叩かれた時のペチンッというあの音が、人類の反撃の響きとしていまでもはっきりと聴こえるのである━。

 

2015年10月16日 記

少年の詩

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「俺達ァ健康優良不良少年だぜ」

 とは主人公の金田の言い放ったセリフだ。いわずとしれた近未来SF漫画の金字塔、大友克洋AKIRAである。

 間違いなく僕が最も繰り返し読んだマンガである。ストーリーや展開、場面やセリフなんかも結構覚えているが、何回読んでもやっぱり飽きない面白さがある。

 

 小学生から現在まで、多くはないけどその時々買ってきた。

 ちょっと挙げてみると、ドラゴンボールなんかの格闘冒険ものに始まり、スラムダンクとかのスポ魂、それからろくでなしブルースのような不良もの、ギャンブル系ではアカギや金と銀、ちょっとはみ出たところで松本大洋ガロ系漫画、ワンピース、最近ではちはやふるという少女漫画(ちょっと恥ずかしい)だったりである。普通の男のまったき王道であるようにおもう、最後の少女漫画を除けばだが。

 さて、そのどれももう売ったりあげたりして現在の書棚にはない。引越しを超えて付き合いのあったものもない。15年を超えて手元に置き続けてきたマンガは唯一AKIRAだけなのである。

 ところで「無人島にマンガを何か一作品だけ持っていくとしたら?」 

 なんていう定番の質問をされたら、僕は当然迷うことなく『こち亀』を選んでしまう。だって一冊に役に立ちそうにない情報量がぎゅうぎゅうに押し込めてあるから退屈しないぜ。だけど、気持ちの上ではやっぱりAKIRAだ。

 

 僕がAKIRAを購入したのはもう随分前のことだ。18歳か19歳の学生の頃である。漫画本では珍しい巨大な大型本で、一冊大体、千円から千二百円くらいする。装丁などは実に凝っていて派手派手しい。毒々しい。ケミケミしい。デカイから重い。まとめて買うのは当時の財政事情のなかでは厳しく、これを買ったら次の巻はバイト代が入ってからにしようと決め込んだのだが、結局一、二日のうちにすべて買ってしまった。こりゃ今月ずっと袋ラーメンだな、と覚悟するようだったのでよく憶えている。

 全体を把握するのが大変なほどのスケールの大きい生命体規模のシステムや、人間の禍々しいまでの欲望や感情の拠り所を的確に捉えた近未来像、未来そのものへの予感、またそれらを編み上げて進められる圧倒的カタストロフィーと選択可能な希望的進化と再生、それを支える緻密な作画や過激な描写、漫画的技法、そこら中に登場するごてごてした機械や乗り物、ドラッグ思考の攪拌幻想、サイバーパンク、忘れられない捨て鉢なまでの会話、ユニークで突飛なキャラクターの数々……。

 18、19歳の知識欲旺盛ではあるけど、あらゆることに経験と耐性のない僕には一度読み始めたらやめられない多様な中毒性があった。

 読み終えた後、本を放り出してゴロンと寝転がる。色々考えさせられる内容ではあったけど、徐々に輪郭を持って心に浮き上がってくるのは、単純なものであった。それは昨日テレビで見た鉄板のうえでジュウジュウ焼かれた分厚いステーキ、肉本来の旨味を堪能するため塩コショウだけのシンプルな味付けで…。

 違ったそうじゃない。袋ラーメンばっかり食べていたせいで思わず気持ちがそっちに引っ張られてしまった。

 話を戻そう。心に残るのは単純で、金田と鉄男の友情が泣けるぜ、というものだった。結局、僕の根本的な世界を把握する感覚は死ぬまで少年ジャンプから抜け出せないのである。ただそう的外れでもないように思うのだ。

 全体構造の芯となっているのは、システム、運命に抗って貫かれる金田と鉄男の少年性だ。その少年性とは正直さ、頑固さ、などのポジティブな面と欲望、嫉妬、挫折といったネガティブな面の両方があっけらかんと晒け出される溌剌として純粋な単純さからくるすべての少年が生まれながらにして持つ爽やかな善の来し方である。そうなのだ、これは少年ジャンプそのものなのである。世界がどんなに複雑で厄介なものになろうとも、正しいと感じる何かを真っ直ぐすべての物事に貫き通す、あるいは貫き通そうと奮闘する。仲間だった二人はあるきっかけから袂を別ってしまったが、根本にあるのはそんな原初的姿勢をまっとうする金田と鉄男のスパークする生の奏でる健康優良アナーキーな"少年の詩"なのである。

 

 ここまできて、読んだことのないひとは「?」がぽわんと浮かぶだろう。”あの〜、アキラって出てこないんですか?”と。

 説明するのが大変なので、気になった人は読んでみてください。面白いことは僕の15年が保証済みだ。

 そういえば「無人島に…」で真っ先に挙げたこち亀両さんも少年のままおっさんにまでなってしまった代表格のような人物だ。

 

2015.8.16記

傘がない

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 なんとはなし付けっ放しにしていたテレビでは、芸能人が地方に赴き、とりあえず市中をぶらぶらし、いやー下町、城下町って感じでいいですね、江戸つーか、時代を感じるっていうか、やっぱり日本は瓦屋根じゃないとダメだよね本来、などと街並みについて感想を述べてみたり、おもむるに目に付いた飯屋の魚と筆書されたような暖簾を潜り席についたのち、店内ぐるり見回し検分、とりあえず壁にぶら下げてある天狗の面を発見、店主に、鼻長いっすね〜、紅いし、つーかリアルだわー、これ、雰囲気あるな〜、本物って感じで、つーか本物の天狗ってどゆこと、などと感嘆し、ついで、すごいものなんですか? などと由来を尋ねてみたりしつつ本題に移行、何が美味いんですか? とか、何年くらいやってるんですか、みたいな事をトントン問うてみた果て、其々所望の料理を注文し食す、みたいな番組がやっていて、その店は海鮮を主としたどんぶりが得意、運ばれてきたそれはいくらやマグロ、雲丹、貝類などの種々様々のぴちぴち、海の幸、恵みがどんどんに載った海鮮丼であり、また加賀、金沢というお国柄、お好み焼きの青海苔の如く金粉が煌めき塗してあったりもし、それらを一口くちにするや驚嘆の声を発したり、おほおほ言うてみたりしつつ、美味さをリポートしていて、非常に羨ましかった。

 で俺も、飯でも食べようか、と思ったが先程から雨が降ってあり、家から出て行けぬ、のは傘が置いてないからで、仕様がない、が、腹は減っている、じゃ自分で拵えたらいいんじゃない、と考える人があるが、冷蔵庫のメイン棚には酒屋が試供品としてくれた菊正宗の180mlパック、野球帽を斜に被った少年の顔面のイラストが描いてある胡瓜の漬物パックが、15cmほどの距離を置いてぽつねんとそれぞれが佇んでいるばかり、その他はなく、扉裏の飲料、調味類を収納する棚には濃縮そばつゆ、チューブ生姜のみ、家中に米はない。それじゃ出前でも頼んだらどうか、と言う人がいる、今日は火曜日であるので、近所にある唯一の蕎麦屋は休暇していて、店員などはそれぞれ家族と団欒したり、パチンコに行ってみたり、二日酔で悶絶していたりしているはずで、蕎麦を茹でる事不可能である。

 がしかし、ピッザがあるではないかという事を思い出した俺は早速ボンジョルノ、新聞に挟まっていたメニューチラシを引っ張り出して眺めたのち、ここはやはり例によってシーフードのガンガンに載せてあるMサイズを注文することに決め携帯電話を片手、サイフを握りしめて絶望した。というのは昨晩の騒乱的酒宴によって失財、サイフには数枚の十円玉と何故かは知れぬ大量の一円玉が嵩んで膨らんでいるばかりであったからである。

 台風が近づいていた。

 俺は菊正宗180mlパックを呑みながら、トタン屋根を打ち付ける、ひどくなるばかりの雨音を聞き続けた。テレビではさきの芸能人が今度は土産物屋に乗り込み、かぶら寿し、購入していた。傘がない。

オン・ザ・ドーロ。

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 僕はまたベラベラに酔ってしまう。

 そして梅雨も終わりかけのある夜、ゆっくり地面に倒れ込んでいった。

 繁華街を歩いていると、路上で寝ている人を見かけることがある。ダンボールにくるまれたレゲエのおじさんではなく、酔いつぶれてしまった人たちである。入学シーズンや、年末になると結構いるものだ。カバンを抱きかかえたり枕のようにしてみたり、それがまたとても気持ちよさそうなのである。そこそこ酒がのめ、酔い潰れるということが少なかった僕は若い頃そんなひとたちを少し軽蔑し白い眼でみていたように思う。

 だけど、いつごろからだったかはわからないが、おそらく自分も酔い潰れることが多くなって、寝てしまうとまではいかないまでも、電柱に寄りかかって暫く休んでみたり、路上に吐いたり、家に帰るの面倒だな、と思ってみたりとすることもあり、それは徐々に共感と同情の入り混じった不思議な感覚となって意識の深いところに静かに沈殿し堆積していたのかもしれない。酒の量と比例して増えていったそれらの行動と感情、膨らんだある種の仲間意識が加わった結果、いよいよ自己肯定的感情が生まれ、そこに行き着いたのだろう、とうとう憧れの眼差しへと変わったのである。

 また、おそらく僕はそこに「誰にどうみられてもいいではないか、眠いから寝るのだ、何が悪い!」と勝手に声高なそんな堂々としたマッチョな主張を想像し、いそいそと家へと帰る小心者の自分とを比べていたりもしたのだ。もしかしたら中島らも高田渡の酔いどれ伝説を耳にしてからかもしれない。あるいはかの有名なオン・ザ・ロードのディーン・モリアーティ(ニール・キャサディ)やサル・パラダイス(ジャック・ケルアック)のような放浪天使、根無し草の破天荒、世間から遠く離れたそんな暴力的なほどの奔放さに憧れていただけなのかもしれない。いつしか路上で眠ることは僕の中でむくむくと膨れ上がって物語的に形作られた自由の象徴となっていた。

 でも最近わかってきたのだけど、もちろんそんな自由の主張や高尚な考えなど何ひとつなく、単純にどうしようもなくアルコールがまわりまくっているだけなのだ。僕だって当然わかっている。

 

 僕が本格的に(?)酒を呑むようになったのは、20代の半ばの頃だった。打ち合わせで行った下北沢で、話が終わったあと、ついでだからと夏の陽が傾き始めた街を撮影してまわった。初めて撮影する街だった。

 スズナリの前の道路で、配達を急いでいたのだろうバイクがそのカーブを曲がる遠心力で、積荷のビールをふり落とした。その場に居合わせた僕は灼けるアスファルトに広がるビールの泡と飛散してきらきら光る瓶のガラスの欠片をしっかりフィルムに収めてから、片付けの手伝いをした。鼻腔にビールの香りが広がり、しばらく漂い残った。

 それから街を一回りし、またスズナリの前に戻ってきたとき、扉が開けられたままのバーから、顔を出した男がカメラを持つ僕にふいに声をかけてきた。

「写真撮ってくれよ」

僕はなんだか生意気なやつだなとは思ったが、撮ってやった。

「撮ったぞ」と立ち去ろうとする僕にそいつは「一杯のんでけよ」といった。僕はそのとき、財布や携帯などの邪魔な荷物をすべてバイクに放り込んでいて、まったくお金をもっていなかったから「おごりなら付き合うよ」と答えた。

「もちろんだ」とそいつはいった。

 そのようにして僕は呑み始め、結局そのままずるずるとふたりして何軒もはしご酒、へべれけ朝方家へと帰ったのである。

 翌週からは二日と間を空けずにそいつと下北沢で呑むようになった。当然のように朝までであった。ふたりともなにも食べずに酒だけを流し込んでいくタイプであった。映画、小説、写真、音楽、政治、女などについてその時々、思いつくまま、悪態つきつき語り合った。それがつまみのようなものだった。本当に若い頃というのは、そうやって酒が呑めるものだ。振り返ってみれば皆、恥ずかしさとともにそれぞれ覚えがあるだろう。

 時々、いつも決まって最後に寄るバーで皿うどんを食べた。それだけがいわば例外だった。

 長崎出身のおばちゃんが切り盛りしているそのバーは朝までやっていて、薄汚れた酔いどれどもの最後のとまり木、ひっそりとした静かでほっとする店だった。となりでソースをかけて食べている彼もまた長崎の生まれだった。僕は皿うどんのうまさも、ソースをかけることもその店で覚えた。

 僕らは若かったせいもあってとにかくアホみたいにそれが当然とでもいわんばかりに無茶苦茶な呑み方をしていた。となりの客にからむなんて当たり前、女とみれば手当たり次第に声をかけ、なぜかは覚えていないがほとんど全裸で呑んでいたこともあるし、雨のなかでどつきあいの喧嘩もした。消防署のシャッターに立ち小便をしながら消化活動だ、と喚き、ガンガン叩き騒いで怒られ逃げたり、なにが面白かったのか工事現場にある赤い三角パイロンをさらってきて椅子に座らせていたこともあった。

 いまになって思うと、その頃は酒が好きとかではなく、ただただその呑む格好、どこかで見聞きしたものが合わさって作り上げられた架空ののんだくれのダークヒーロー、スタイルを創り出し、その背中を二人して競うように追い続けていたといっていいのかもしれない。

 なんだかどうしようもない三文小説のようになってしまった。この頃の話は書き出すと長くなるのでこの辺にしておく(そいつは一冊だけ映画のノベライズを出版したことのある小説家、作家くずれみたいなやつで、その当時の僕らのことを短編として書いて誌面に発表した)。

 僕はとにかくそのようにして、酔っ払い呑むことを覚えたのだ。それでもどんなに酔おうが、何時頃にどうやっては覚えていなくても、いつもちゃんと家には帰っていた。

 

 つい先日のことだ。

 馴染みのバーを出て歩き出し、きっと近道だと考えてのことだろう、大きな通りから外れ、住宅街のなかを斜めに突っ切っていった。思いのほか酔いのまわっていたらしい僕はコインパーキングでいよいよへたり込み、ぱらぱらと降る雨粒が冷たくて気持ちがいいなと感じて寝転がり、意識を失っていくのをはっきりと認識しながらそのままゆっくり意識を失っていった。それは手に掴んだ細かな砂が指の間をさらさらと流れ落ちていくような感じで心地よい喪失感を伴うものだった。

 どれくらいの時間そのままでいたのかはわからないけど、気づいたときは、雨がかなり降っていて僕はびしょぬれになっていた。とにかくひどく寒く感じられた。帰ろう、とそれだけが強く思われた。

 

 果たして僕はそのようにして突然ストリートデビュー、あっけなく中途半端にひと知れず憧れの路上でねむるひとになった。おそらく観客はいないはずだ。その点においては少し寂しい気もする。繁華街なんかではなく、住宅街の駐車場で真夜中にひとが倒れていたらさすがに声をかけるか、警察に連絡くらいはするだろう。幾ら人と人の繋がりが希薄といわれる東京でもそれくらいのやさしさはあるはずだ。何より事件にでもなったら寝覚めが悪い。

 さて経験してしまえばなんのことはない、二度とごめんだ。もし天気のいい晴れた日で、ネオンまたたくオーディエンスの多い繁華街でなら、機会あればまたひっくり返ってみようか、と考えてもみるが、その発想の時点でなんだか違うし、つまるところ僕は本物のそれにはなれないのだ。憧れは憧れのままのほうがいいし、それはきっと永遠に手のとどかない高嶺の花にしておいたほうがいいのだ。

 

 僕はその日、友人に不意に誘われ、なんとなれば「勝手にしやがれ」というものすごく格好いい名前のバンドのライブにいった帰りだった。ライブが行われたのは下北沢であった。

 

2015.7.29記

ワオンの咆哮。

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 最近、僕はしょっちゅうワオンッいわしている。
 といっても犬と暮らし始めて三ヶ月が経ち、芸は身を助けると昔から謂うし、僕の稼ぎだって文鳥の雄叫びくらいのものだし、はっきり言って豪華豪勢の食事は与えられぬ、ましてやフリーランスであるから尚のこと、週5日、もやしと竹輪、という事も考えられ、それら諸事情を鑑み、幾らかそういうの出来た方がいいんじゃない、みたいな感じの親心的ノリで、芸能を仕込んである最中、しかしなかなか上達せぬのは仕方がないとしても、上手に芸が成功した場合に食べてよいというルールの、かりかりになったお菓子を、事を成さぬのに、首をちょっと傾げた感じのかーいらしい貌でせがんで来、かーいらしいのだから仕方ないので、こちらもついついお菓子をあげてしまう己の弱さを認めるわけにはいかず、半ば八当たり気味、芸能はそっちのけでお菓子にばかり執着していてはあかぬ、と軽く小突いた、というのではなく、電子マネーWAONを使い始めたからである。

 さてこのWAONというのは、財布を出しての現金のやりとりの煩雑を省略できる非常に優れて便利なカードである上、勝手にポイントが貯まり、またその支払完了時に出るワオンッというサウンドがはっきりいっていい、好き、なんかこう、渋谷駅に主人を迎えにきて待っていたハチ、人波から現れた飼主である教授、互いを感知、じゃ帰ろうか、ワオンッ、みたいな軽快さ、ツーカー感があり、酒や干物を銭を払って買うているだけなのに非常に小気味いいのである。
 しかし考えてみるとこれは犬好きには頗る良いものの、人生において犬によい印象を抱いておらぬ人もいるわけで、例えば、幼少の頃、頭を撫でようとしたら、噛み付かれそうになったので逃げたら、猛烈においかけられ転んだとか、初めて行った恋人の実家のチワワに普通にシカトされた、哀しい、みたいな経験、想い出があった場合、何がワオンだよ、嫌な事思い出しちゃったじゃんか、呆け、ボラー、みたいな負の感情が勃興、著しく気分を害する可能性があり、実際このサウンドの音量は結構大きく高いキーなのだ、僕が支払いで使用した場合、三人くらい背後まで、ワオンッが炸裂するわけで、仮にその中に昨晩の痛飲で宿酔い、おまけに額には記憶にないたんこぶがあり、そこにカーテンから差し込んできた残暑の太陽光が照ってきて熱痛くてかなわん、みたいな寝起きで気分がボラボラしている犬嫌いのかつ粗暴が炸裂した感じの生き方している人があった場合、殴られるかもしれず、いっぱい人がある時には使用するのを控えよう、などと言う事を人々は考えたりしないのだろうか、と冷やしトロロ蕎麦を片手に宿酔い、レジに並んでいる俺は人々がワオンッを炸裂させる中、そう思った。

耳をすませば、目黒のさんま

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 ミートソーススパゲッティが食べたくなって食べた。

 食事も終盤に入りあとフォークに3巻きくらいだな、という頃に登場したかすかな違和感があった。僕はスパゲッティをすっかり巻き切って綺麗になった皿を眺めて思った。

 あ、これじゃなかった。ミートソースじゃなかった、と。かすかな違和感とはこれだったのである。

 僕が食べたかったのはナポリタンだった。正確にいえば僕はミートソーススパゲッティが食べたいと心で思ったけど、実は身体が要求していたのはナポリタンであり、若干のずれが生じたわけである。

 食べることは本来とてもプリミティブなことだ。あれこれ考える必要はない。体は正直だ。基本的には生きていくのに必要なものは身体が教えてくれる。ただ耳をすましてその声を聞いて素直に従えばいいだけなのである。

 野菜が食べたいと感じればトマトやレタスを齧ればいいし、肉が食べたいと思えばステーキを、魚が食べたいと思えばさんまでも焼けばいい。それが身体が必要としている栄養なのだ。

 手術の後で体力が無くなっているとする。よし、これから回復するぞって時に、ゴリゴリのスナック菓子、例えばカールのチーズ味を要求することはないのだ。病み上がりの肉体にカールおじさんの出番はない。もし仮にお菓子ばっかり身体が要求するんです、という人があったら一度テレビやインターネットなんかの過剰な情報源を絶ってみたほうがいい。自分の身体の内なる声を聞くには、環境がやかまし過ぎるか、詐術的に消費を刺戟する情報で耳がふん詰まりになっているかのどちらかである。

 さて、僕は数あるスナック菓子のなかでカールチーズ味が一番好きである。

 絶妙なカール具合(曲がり)はもちろん開発者の努力の賜物だ。あの形状によって抜群の食感を生み出すことに成功している。それからメインキャラクターのカールおじさん。カールにいさんだったり、カールおばさんだったりしたら、やっぱり違う。カールおじさんであっても、角刈りでスーツなんか着込み小脇にセカンドバッグだったら、いくらあの愛嬌のある顔であのテーマソングを口ずさんでいても、もう”カールさん"みたいになって親近感がなくなって気軽に食べれない。"おばあちゃんのぽたぽた焼き”だってあれがおじいちゃんだったら、何がぽたぽたしてるかわからないし、あの不二家の傑作カントリーマアムにしたってカントリーダディになると、しっとりやわらかっていう感じが削がれて、焦げてカッチカチになってしまう。

 駄菓子王のうまい棒を忘れていた。タヌキだか猫だかに似たドラえもんコロ助を足して割ったような風貌のキャラクターとそのネーミングがやっぱり絶妙なのである。あれが、うまい”某"だったりしたら、何が原料なのかわからない恐怖感で誰も手に取らない、子供には絶対食べさせない。うまい”棒”でも実際ちょっとわからないところをあのスチャラカキャラクターが全力でフォローしている。めんたい味と迷うが僕はこの菓子でもチーズ味をやっぱり買ってしまう。ただ棒状になっているだけで、はっきりいって味はほとんどカールである。(そういう意味では2020年東京オリンピックのエンブレム問題なんかの比ではないと僕個人は思っている)

 僕はきっと、あのチーズじゃないけどものすごくチーズ感のある駄チーズ味にやられてしまっているのだ。

 

 本筋に戻る。ミートソーススパゲッティとナポリタンは親戚みたいなものだし、今回はボタンの掛け違いをするみたいに少しずれただけのようである。

 ただ、これがナポリタンではなくカツ丼だったわ、なんてことになったら一大事である。いよいよ焼きが回ったということで、ボタンの掛け違いどころではなくて、フリフリのスカートを頭に被ってしまうくらいにもうずれまくっていることになるから考えなくてはならない。カールおじさんうんぬん言ってる場合ではない。

 これ以外にも”ずれ”というのは結構ある。新聞を読みながら珈琲に手を伸ばすと、手の甲の部分が当たり、あちゃっとなり湯飲みをコトンとやってテーブルの上は珈琲浸しになってしまう。思ったよりも足が回らずに扉の角に小指どころか足首全体をぶつけて悶絶し、返す刀で頭を壁にぶつけてみたりする。こういうのはしょっちゅうだ。自分の思っている手足の位置感覚や動きと実際の距離感がマッチングしていないのである。

 一時期テレビニュースで中国の子供がぴったり壁と壁の間に挟まって抜け出せなくなっていたり、土管に巻き寿司の具みたいに詰まっていたりして、キッズはあほだな、自分のサイズ感がまるでつかめておらん、などと小バカにしていたのだが、考えてみれば僕も同類なのだった。そのうち僕もカメラを持って夢中になって、路地へ路地へと進むうちにそこらの街の壁の狭間で身動きが取れなくなって、道行くギャルに助けを求めていたりするかもしれない。

 

 今年も目黒に秋刀魚がやってくる。さんま祭りである。古典落語の『目黒のさんま』に因んでというのが始まりだ。落語は知らなくても、さんま祭りは知っているなんて人もあるかもしれない。それくらい目黒界隈の人々にとって馴染みの秋の風物詩になっている。

 毎年、暇が合えば会場にいってみる。食べたことは一度もない。僕はせっかちな性分だから、並んで行列を作るなんて事が出来ない。とにかくものすごい人なのである。スーパーで買っても300円、400円くらいのものだ。あれだけの人が行列を作るのだから、頑張って並んで待ちに待って食べるさんまはやっぱり格別なんだろうと想像でき、少し羨ましい。

 会場では20メートルくらいの細長い列を何本か作って、ブロックで囲んだ焼き場に炭を入れ、金網を敷いてその上にさんまが一列に並べられる。そこに焼く係の人と食べるのを待つ人がさんまを挟んで対面する格好で座る。さんまがなければ集団お見合いのようである。

 そこらじゅうでジュウジュウパチパチやっている。食べるのを待ちきれないのか、焼く係りの人の顔とさんまを交互に見やったりしている人もいる。時々、さんまから落ちた油に火がついて直火になるのを防ぐため、炭に水をピューっとかける。すると炭とさんまの香ばしい匂いを巻き込んで水蒸気が勢いよく舞上がる。それをそばで眺めているだけで体はもちろん心まで全身スモークされてしまう。

 そうなるともう我慢ができない。人間がそうなのだから、そこらにウロウロしている猫なんかはきっとたまらないだろう。サザエさんの家どころか魚屋に命がけで飛び込みたい衝動に駆られているはずだ。

 そんなことをしなくてもよい僕らはそそくさと会場を後にして何処ぞの定食屋に入って昼からビールをやり、大根おろしとのタッグは最強だな、と言ってみたり、ポン酢をかけるやつがいたら、醤油だろボケ、なんて話をしながらさんまをつつくのである。そういうさんまもやっぱり美味しい。

 猫諸君、ついてきたらお頭と少し身をつけた骨くらいはくれてやるぜ。秋刀魚は目黒に限る。

 

2015.9.19記