アッパー

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 パスポート申請をしに新宿にある旅券課という所へ行ったが、思っていた以上に混み合っており、大きい病院の待合室くらいの場所に老若男女70人くらいが椅子に座り、あぶれて立っている人などもいて、受付で渡された番号札がカウンターに取り付けてある電光掲示板に点灯するのをそれぞれ待っている、というと大病院と大きさもシステムも似ているがしかし、雰囲気が全く異なるのは、ずばり人々の醸す、発する念みたいなものが違うからである。

 病院で待つ人々は好調でないから来るのであって例えば、いや~この一週間くらい肩の調子がすこぶる良くてちょっとボールを投げてみたら170kmでたんですわ、草野球で、せやさかいプロテスト受けようおもてますねん80歳やけど、契約するのに診断書いりますやろ~、メディカルチェックいうやつや、みたいな事で訪れることはなくやはり、胸の辺りがちょっと苦しいんだけど肺臓がやばいんではないか、婆さんや~とか、天気が良いから河川敷、ちょっとした草むらを散歩しておったら、土偶がスネを直撃、激烈に痛いんだけど、はっきり言って折れてると思うわしは、それはまあしょうがないとして、粉々に割れちゃったんだけど呪いとかあんのかな~土偶縄文時代って何かこう毒っ気が強いつーかさ、やっぱり弥生のほーがーいいな~みたいな、みたいな不安をそれぞれ抱えていて居ずまいに何処となく陰を落としており、ココロが皆一様にダウナー、に比して旅券課の人々はというと、新婚旅行でハワイにいく、とか、ニューヨークへ行きびんびんにビジネスしドルを稼ぎビルを買う貸す売る、というシャイニングめく者や、ウィーンの音大へヴァイオリンの勉強のため留学するのだす、みたいな娘、青年、あるいはフランスに赴き高級ワインを飲みながらフランス料理を食すぜ、俺は、私は、ざます、エルメス、みたいなオーラが満ちてあり、モサモサのファーに包まれたご婦人やシワひとつない光沢のあるスーツを着、髪をジェルでオールバックしたプラスティックヘッドみたいな人などもいて、気持ちがズンズンしている感じ、極めてアッパーなのである。まあ俺もそのアッパーの一員なんだけどね、アロハ。飛行機弱いけど。みたいな事はどうでもよく、先日いったラーメン屋について書こうと思う、俺は。僕は。

 

 夜十時、大通りを歩いていると、ラーメン師匠と赤いビニールに白色でプリント、その隣にはカピバラが描いてある店があり、普段そのような迂闊にファンシーが丸でてしまったような店に入る事はないが、ここは旅先、付近にカピバラ師匠の他食事が出来る処は見当たらず、俺はラーメンとだけやはり赤色の布地に白く染め抜かれた暖簾をくぐり、手近の席に着いた。

 コートを脱ぎ、落ち着いたところで、店内を見回してみると以外にもファンシーさはなく、週刊誌などが小上がりの片隅に積み上げてあり、隣には緩やかに傾いでそこだけパースが狂って見える合板の本棚、中には食堂の定番ザ・シェフと釣りバカ日誌の2タイトルが並べてある。天井付近に設えられた台にあるテレビは、程良く小汚く、黄色くくすんだブラウン管には科捜研の女16が流れてあった。

 つまりよくある庶民的な落ち着く感じの仕様、オーソドックス、街にひとつはある市井の中の市井、人々に愛される感じの駄中華的な店、で店員はというと店主と思しきオヤジが一人居、ワイキキビーチと英語で書いてある、それがズンズン主張してくる感じのプリント、のTシャツを着、頭部にはぐるりヴェルサーチ風スカーフ柄のハチマキが縛り付けてある上、顔には顔面のサイズに比して小さ過ぎる眼鏡を掛けてある為、バランスみたいなものがガチャガチャになっていて非常に落ち着きがなくみえ、師匠というには縁遠い雰囲気、でカピバラのような顔感じを感じるかといえば、ちっとも可愛らしいこともなく、カピバラというかゴリラの方が近く、愛嬌皆無、むしろ無愛想といってよく、俺が店に入った折、しゃいっ、みたいな事をこちらを向きもせず小声で言うた以外、いつ迄も注文を聞きにも来ず、カウンター越し、覗いてみれば厨房でキャベツを一心不乱、凝縮し続けている。

 別に愛想を貰いに来たのでないし、俺は厨房に向かって声を出し瓶ビールとラーメン並を注文し、科捜研の女沢口靖子が難しい顔をしたり走り回ったり部屋中に薬品を掛けまくったりし結果分析、犯人の目星を付けるみたいな事をして忙しそうにしているテレビ画面を眺めながらとりあえずビールが来るのをぼんやり待っていた。

程なくして瓶ビールが運ばれてきたが、ラーメンと同時に出されたので驚愕した、がそれはビールが遅かったのではなく、ラーメンが激烈に速かったからである。そして即席麺並みの速度で拵えられたそれはうまく、がしかし空腹は最高の調味料だよね!みたいな事があったわけではない、俺は数時間前にカレーパンを食っていたしね、ヤマザキパンの。みたいなこともどうでもよくて、つまり本日の俺の気分はアッパーなのだよ。しゃいっ。

ぐんぐんのインスタ

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 最近、仕事でインスタグラムというのをやらねばならんというのでやっているが、これは基本的にフォロワーを増やすことが至上命題といえ、しかしこれが中々難しくまったく増えないのだけども時々、まだ始めたばかりの僕が投稿した写真に、いいね!をしてくれる人があって、それはどんな人かなと、そのプロフィール欄を見てみたら、「コメ貰えると嬉しいです」と書いてあって、なるほど、少し食うに困っている、貧乏してるのだな、と思った。僕も窮するようなことがあれば、パン貰えると嬉しいです、と書いてみようと思った。

 みたいな事はどうでもよく、時折、いいね!を連弾してくれる海外の優しい人があり見てみると、浜辺やベッドの上でぐんぐん胸を強調した写真を掲載している女の人などが結構あり、フォロワー数などももの凄い数になっているのだけども、そのように浜辺やベッドの上でぐんぐん胸を強調した写真を投稿しているのにフォロワー数が少ない人がいないのは、浜辺やベッドの上でぐんぐん胸を強調した写真を掲載することによってフォロワー数が増えたのか、浜辺やベッドの上でぐんぐん胸を強調して写真を掲載するタイプの人は元来フォロワー数が多いのか、という事が気になってばかりいて、ちっともこちらのフォロワー数が増えぬ。と嘆いてばかりいてもあかぬので、そういう人達の投稿の傾向、構成を分析してみると、実に単純、ぐんぐん写真の他、スイーツの写真が散見される事に気付いた俺はしかし、男である為、浜辺やベッドの上でぐんぐん胸を強調してもあまり意味がない、しかしその本質とは何かといえば、ズバリ、エロスである。

 であるならば、同様価値、つまり代替エロスを投稿すればいいわけで、ぐんぐん考えてみた結果、いま俺のいる薄暗がりのバーカウンターにあるグラスの水滴などなるほど実にセクシーだし、灰皿で口紅に染まった、消えず燻る薄荷タバコなどは、はっきり言ってエロスそのものである。

 で俺はそれをすぐさま撮影投稿、また、スイーツを探したが、無かったので手近にあった小皿に載っている乾き物とナッツで代替することにして、それだけでは画としての訴求力、華やかさに欠ける、でイカの燻製とナッツでパンダを描きこれを即時撮影投稿した。

 これでフォロワー数が一万単位になるだろうと悦に入って飲み続け、酔いに任せ、事あるごとに、そのような写真を連投、翌日、勝利の美酒に膨れ上がった二日酔いの頭を抱えながら、フォロワー数の高を確認すべくみてみると、中年の独呑みフォト日誌みたいになっていた挙句、フォロワーはゼロであったよ。

右脳的左脳

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 右手と鏡写しの対象にして手の形と指を同じ位置にしてそこに箸を握らせる。見た目は同じだ。

 サウスポー。何だか格好いい。いけそうである。

 昼飯を左手で食べた。

 ゴボウ天そばである。

 手始めにそばを挟もうとしたのだがうまく力がはいらず一向つかめない。とりあえず持ち上げてみようと引っ掛けてみるがずるずるとつゆのなかに戻ってしまう。いきなりそばはやりすぎだ、物には順序ってものがあると、刻みねぎに挑んでみるが箸先がうまくカチ合わず虚しくつゆをかき混ぜるだけである。そればかりに集中するといよいよ全体のバランスが崩れて、なんとかリカバーしようと変なところに力が入り、親指の付け根の辺りをつってものすごく痛い。思った以上に難儀である。

 これはもうなんか中学生が好きな女の子と初めてデートすることになり、うまくやろうと張り切り過ぎたあまり、色んなところに力が入りものすごく不自然な立ち居振る舞いをしてしまってそれをなんとか挽回しようとしてさらにストレンジな状況になって起死回生男らしくぎゅっと手を握ってみたら、痛い、離して、なんていわれてしまう。そんな感じである。

 ただ僕は30を軽く超えた大人である。なんとかそばをホールドして持ち上げ口まで運ぶ。だが今度はなんだか口の開け方までぎこちなくなって、変にすぼめてしまったりパクパクし覚束ない。ほとんど金魚か北の国からの黒板五郎のようである。その上、突然暇を宣告され、やることのなくなった右手はいつのまにか中空で人差し指と中指と親指を突っ立てて固まっている。周りの人はきっと、こいつはなんでそばを食いながら田中邦衛のモノマネを披露し、さらにはフレミングの法則までやっているんだろうか、と不思議でならなかっただろう。

 ようよう食べ終わってみたものの箸使いに集中しすぎて、全神経がそっちに持って行かれ、まったく食べた気がしない。残ったのは力尽きてふるふる痙攣する左手と虚しく空になったどんぶりだけであった。

 メジャーに行って活躍するダルビッシュ投手なんかは、本来は右投げだが肉体や筋肉のバランスをとるため左でキャッチボールをする。フォームもとてもきれいだ。その上本気で投げれば130キロくらいは出るらしい。こういうのはやっぱり持って生まれた才能なんだろうか。利き腕で投げてもまっすぐいかない僕などは左投げなどしたらきっと新ジャンルの悪魔っぽいダンスのようになってしまうのは間違いない。

 

 「酔っ払って腕を振り回して仏像にぶつけて右手怪我したんですか?」

 とものすごく具体的に心配してくれる人もあるだろうから、最後に僕がサウスポーにしたきっかけを述べておく。

 先日、脳のテストをしたら「右脳100%」という結果が出た。果汁100%みたいだ。

 人間の脳ミソには右脳と左脳という右利き、左利きのようないわば利き脳があり、前者は感情や感性、イメージを得意とし、後者は理論や計算、言語を得意とした論理的思考をするという。僕は「右脳100%」ということだから、論理思考ゼロの直感一徹人間ということになる。

 周りからはイメージや直感の人だと言われてきたが、僕自身としては論理の人だと思っている。

 単なる遊びなのだから捨て置いてもいいのだが、それにしてもなんだかバカにされている気がするし、右脳ばっかりが働いて左脳はだらだらしているのだから不公平である。左脳の怠慢が甚だしい。なんだか悔しいから、積極的に左脳を働かせてやろうと思い立ったのである。かといって殊更何かをするのは面倒くさい(これは心全部のコンセンサスとしての怠慢だからいいのだ)。なので普段の生活の中で、気のつく範囲で利き手とは逆の手を使ってみることを考えたのである。

 大脳は右半分と左半分に分かれていてそれぞれ体の反対側の動作を支配している。つまり右手と左手はそのままクロスする格好で左脳と右脳に直結しているから、右利きの僕はサウスポーとなることで右脳に休暇を与え左脳にその分の労働を課すことになるわけである。

 箸を使っての食事、珈琲のドリップ、洗い物をする時のスポンジ、ハミガキ、リップを塗る、ガムの包装紙を剥がす、携帯やリモコンにマウスの操作、思いつくものをあげればこんなところだ。文字を書くのも左にしてみたいが、ちょっと時間が掛かるし強烈に乱れるのでそれらを眺めていると「言葉・記号とは何か」みたいな問いが生まれて遅々として物事が進まず、果てしなく脱線してしまうことになりそうなので今回は止めることにした。

 とにかくそんな理由で僕はゴボウ天そばを左手で食べたのである。

 珈琲ドリップも結構繊細な動きを要求される。ゆっくりと少しづつ円を描くように注がなくてはならないのだが、もちろんどばっとなる。それからハミガキや食器洗いなんかの考えながら系は、終わる頃にはいつの間にか右手に持ち替えていたりするのだ。マウス操作は多少おぼつかない足取りにはなるけど支障はない。ただ一旦手を離してしばらくすると視界の隅にあるのにキーボードの右スペースを手が彷徨っていたりする。

 

 まだ始めたばかりだから僕の思考に何の変化もみられないが、そのうち効果があらわれて頭脳明晰な論理型エッセイをお披露目できる日が来るのもそう遠くないだろう。それから、焼き魚をサウスポーでさりげなくかつ華麗に食し、女の子にキャーキャーいわれてみたい。どちらかといえばこっちの方が本命である。

 

2015.9.29記

髑髏の無添加。絶唱。

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 夜半遅くバーで呑んでいると、旧知の作曲家の友人がピアノで弾いたメロディを強制的に聴かせた後、アイドルの唄うラブソング、とりあえず月光というテーマで詩を書いてくれ、今夜のうちに此処で、などと唐突に言う。

 俺はいい具合に酔い緩々していたので、面倒なことは避けて生きてゆきたかったがそういえば以前、よかばいなどと博多弁を言いつつノリで安請合いした気もする。となれば無下に突っ撥ねる訳にもいかず、此処で、今夜!と鸚鵡返し感嘆驚愕しつつまごまごし、無理かな〜時間的に、酔っちゃってるしね、ビバ!などと陽気に呟きつつやんわり断りの旨、雰囲気を醸成してみたが、スルー、シカト、まるで取り合ってくれず、尚も、こういうのは勢いでやった方がいいんだよ、気楽にさパパッと、自由にやってくれていいからさ、などとニコニコ軽快に強硬し依頼してくる。

 作詞など初めての事であったが自由にやっていいというし、己の蒔いた種、引き受けることにしたのははっきり言うと作詞印税による富裕が目当て、つまり具体的にいうと本鮪、地名の付く和牛等を日本家屋の料亭、中庭を横目に長廊下、通されたピシピシ畳が敷き詰めてある個室、土壁風情、床の間には武骨な造形つーかなんか子供が適当に拵えたって感じの明後日の方向に歪んだ瓶に可愛らしいお花が一輪、控えめに搖れる粋、みたいな雰囲気のど真ん中で酒を呑みつつ、順繰りに供される色々の趣向による調理、味付け、彩りでそれらを食しかつ高笑いするという殿様の如き贅を手に入れるべく俺は既に十分満ちていた酔いに任せて身を奮い起たせ創想、暫く頭蓋内沈想、したら劇烈に眠くなって来、帰って眠りたいな〜ビバ!とか思いつつの内、いよいよ眠りに堕ちる寸前、踊り出てきたのは、

 

 見上げれば翳む淡光 AKG47の思い届くか今宵舞雪の月に

 バスタブに搖れるクラゲの髑髏

 

 であった。

 何、なんなの、何処がラブソングなの? 髑髏ってラブ感ないじゃん全然、デスやん、デスメタルじゃん馬鹿!カピバラ!などとヒステリックに罵倒してくる人があるかも知れないが、しかしかつてローリングストーンズのキースリチャーズが言い放った、人間なんて一皮剥いてしまえば、皆一緒さ。という言を知る者は、そのぶっきらぼうで大雑把な、でも美しい愛の煌めきをそこに感ずる事が出来るだろう。

 しかし、ラブソングなのに髑髏などと書いたのは、実はキースの言葉を思っての事ではない。ここ二日、迫る展示に向けて髑髏の写真をひたすらプリントしていたからであり、僕のリアル頭蓋の中は〆切に追われる格好で髑髏で飽和、きゅうきゅうだったので、それが自然に転がり出たという事であろう。つまり自然体。ナチュラル・ボーン、無添加、みたいな。

 また、説明は不要だろうがAKG47というのは、当然、忠臣蔵赤穂義士四十七士の事である。仇討という過激であったとしても言うまでもなくここにもまた愛が溢れている。汪溢。

 ということで、これは究極の自然体ラブソング、売れる事疑義の余地無く、CD売上のみならず、ドラマの主題歌になる可能性も高く、となればカラオケで熱唱する者が続出する事違いなく富裕贅を確信、来たる栄華を噛み締めつつ俺は悦に入り一字一字書き留め、少し離れた椅子で酩酊しつつバーテンと談笑しながら待っていた、作詞をオファー懇願した友人ミュージシャンに自信満々渡したら、港に打ち捨てられた雑魚を見る如き眼差しを向けられた挙句、無言のうち殴られた。

 俺の富裕は月夜に脆く散った。

 ビバ。無添加。絶唱。

8分19秒

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 写真とは光の偶然のことである。

 写真をやっていると本当に稀に”光"そのものを捉えたと思える瞬間がある。

 状況は様々だ。見た目そのまま暗闇に射す一条の光かもしれないし、何かに反射する光かもしれない。そんな具体的なことではなくてもっと感覚的なことかもしれないし、あるいはただ感情的な錯覚かもしれない。

 結果は後からやってくる。フィルムで確信し、プリントして初めて確認することができる。そんな一枚は意味的写真、目的的写真、対象的写真をやらない僕にとって何ものにも代え難い。

 小説家なんかでいえば、いい物語が創れたとかではなくある一節、文章そのものを書きえた、という感覚に近いもののようかもしれない。詩人でいえば言葉そのものを掴んだという表現になるかもしれない。ミュージシャンでいえばライブ中のギターの激して震える一本の弦の静寂に似た独音、心地よい声帯の振動、あるいは透き通り抜けるような一発のスネアを思い浮かべればいい。

 それはほとんど劇薬である。一発でノック・アウト、甘美な快楽だ。そしてまた中毒性が強い。それを知っていればやっていける、それがまたあるかもしれないと思えれば何とかやっていける、そんな風である。太陽はほとんどドラッグだ。サンライト・ジャンキーだ。知人にひとりくらいはカメラマンがいるだろうから聞いてみるといい。「ジャンキーか?」と。間違いなくイエスと答えるだろう。あれ?これではやばいやつの方で答えてしまっているかもしれない。

 

 いつどこにどのように現れるかわからない。誰も知らない。

 夏なのか、冬なのか、それとも、春や秋か。室内に差し込む朝のそれか、暗渠に浮かぶコンクリートのひび割れか、アパートとブロック塀の間隙を縫う陽の光かもしれない。シダ植物の葉叢から溢れ落ちる光、太陽を乱反射する東京湾の濁波、磨き上げられたスーパーカーのボンネットかもしれない。パルコのショーウィンドウの中にあるかもしれない。すれ違う女の子の耳で揺れるイミテーションのピアスの輝きかもしれないし、監視カメラの鈍く光るレンズかもしれない。バイクのサイドミラー、メタリックな塗料のタギングやグラフィティ、ドブ川に浮かぶファンタグレープの空き缶かもしれない。首筋に流れ落ちる大粒の汗かもしれないし、カメラを見返す瞳の中かもしれない。溶け出しそうな程夏陽に焼けるアスファルトか、寒さに身を屈めるコートの襟の飾りボタン、捨てられたブラウン菅テレビかもしれない。あまりに暑いから昼過ぎから飲み出した陽光の当たるテーブルに置かれたステンレスの灰皿か、ビールジョッキを伝う水滴かもしれない。競馬場を駆けるG1馬の靡く栗毛のたてがみかもしれないし、腰まで伸びた髪をかきあげる女の指のシルバーリングかもしれない。葬式で婦人の首にぶらさがる真珠のネックレスかもしれないし、頬を濡らすひとすじの涙かもしれない。陽炎の揺れる雑踏、西日射す入道雲、ビルの間の張り巡らされた電線に網目状に区切られた空、トラックに蹴散らされて泥土となった環七の残雪、強烈な冬の透き通るような逆光と路地を抜ける空っ風かもしれない。寿司屋の生け簀の中で身を翻すアジ、ろう作りのナポリタンの鮮やかな食品サンプル、大阪へと向かう新幹線の流線型の車体、風を目一杯孕んでオフィス街を舞うコンビニのレジ袋、空き地に投げ捨てられたオールドパーのボトル、繁華街の油の浮く水たまり、昼間から電飾の光る風俗店の看板、工事現場のブルーシート、虹色の光彩を放つ大振りのサングラス、テラテラとしたフルフェイスのヘルメット、パトカーの赤色灯、あるいは道路にベッタリと張り付いた自分の影…。

 

 太陽の光は平等に降り注ぐ。可能性はそこら中に転がっている。経験も才能も関係ない、光景はただカメラを持つ者の前に突然に訪れる。

 目玉はひとつあればいい。どうせレンズはひとつだし、片方は閉じるのだ。僕は義眼のカメラマンをひとり知っている。

 経験がある、予測は立てられる。あのバーには女の子がひとりはいるだろう、とかそんな予感とか予想は立つ。だけど女神かどうか(魔女かもしれない)はわからない。いやもっとひどいかもしれない。それこそあっちの原っぱに鹿とかいそう、みたいな原始時代の狩猟並み。いずれにしてもその程度のものであまりあてにならない。やらせはなしなのだ。

 焦げる。待ち焦がれる。写真家とは快楽を得るためにずる賢くカメラを持ち続け、その瞬間を待ち続ける者のことである。他人がそれを捉えた時、嫉妬するものである。その一点において誰よりも強欲で傲慢で乱暴者で独裁者でありたいと願うもののことである。

 焦がれる待ち時間をやり過ごすため酒をのむ。待ちくたびれてのみすぎる。二日酔いをしてなおカメラを掴む。

 太陽の光が地球に届くまで8分19秒。写真家とは永遠のようなその8分19秒の中にいてしたたかに生きるゴンゾウ、のことである。

 

  自分の人生は自分のモノだ。

  くだらない声に踊らされるな。

  目を凝らせ。

  必ず、抜け道がある。

  光はある。

  微かな光かもしれない。

  でも、闇よりましだ。

  目を凝らせ。

  神がチャンスをくれる時もある。

  逃すな。

  掴みとれ。

  死は避けられない。

  でも、死んだような人生は変えられる。

  光を探せ。

  まだそこに光があるはずだ。

  自分の人生は自分のモノだ。

  それを片時も忘れるな。

  自分にしかできないことを。

  神はそれを見たがっている。

 

  your life is your life

  don’t let it be clubbed into dank submission.

  be on the watch.

  there are ways out.

  there is a light somewhere.

  it may not be much light but

  it beats the darkness.

  be on the watch.

  the gods will offer you chances.

  know them.

  take them.

  you can’t beat death but

  you can beat death in life, sometimes.

  and the more often you learn to do it,

  the more light there will be.

  your life is your life.

  know it while you have it.

  you are marvelous

  the gods wait to delight in you.

 

※The Laughing Heart / チャールズ・ブコウスキー

2011年リーバイスCFで使用された訳を引用

 

 

 中平卓馬が死んだ。写真の人だった。

 中平さんの撮る新しい写真がもうみれないとなると、僕は世界を知るすべをひとつ失うことになる。

 

2015.9.5記

汚れちまった

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  中原中也の有名な詩の一節を想った。

 

  汚れちまった悲しみに

  今日も小雪の降りかかる

 

 正直にいえばひとり恥ずかしげもなく、口に出してみもし、それから呑んで泥酔、少し泣いた。

 それはなぜかといえば、今年初めての雪が東京に降ったからで、それから数日、コンクリート工場の前の路傍に僅かに溶け残った雪を見、さらにいえばそれはかなりいい感じに泥に塗れた残雪だったから、というのがひとつで、常人、本当であれば中空を舞い落ちる雪を見て、というのが正しいのだろうが、僕はこの詩の中の「汚れちまった」という言葉と「雪」という言葉がどうにも抗い難く直接連結してしまっていて、決まって土や排気ガスに染まった殆ど泥土となった残雪を見るとしようもなくその詩句を思い出すのである。

 だがそれだけが理由でというのではない。

 本当のところ、たまたま見たアニメ、そこでもやはり雪が降っていて、中学生のキッズ達が音楽に恋愛に友情に夢にと全力、かつ難苦や困難、悲劇に翻弄されながらもバイオリンを弾いたりピアノを弾いたり、叫んだり、喧嘩したり、走ったり泣いたりしこれを打破、少しづつ成長してゆくという青春群像劇、最初は「定番ですね、捻りはないのかコラ!」などと悪態を付きつつ観ておったが、気が付いたら前のめり、いい歳をした大人であるにも関わらず僕はガンガンに心がバイブレーション、結果、落涙、つまり心のモードがセンチメンタルになって緩々、それが昨夜。

 僕は根本的に雪が好きである。といってみたものの、雪深い故郷に育ち、雪を見ると望郷、というのでもないし、逆に沖縄などに生まれ「雪見たことないさ〜」というのでなし、それじゃウィンタースポーツが趣味で週末毎にレジャー化された山中に分け入りゲレンデ、足に板を貼り斜面をグングンに滑走したいというのでもなく、ただ日常の風景が殊更僕の住む東京がいつものごちゃ混ぜのそれが一様に真っ白になるのを眺めるのが好き、愉快、でも寒さに激烈に弱いので、暖房でぽかぽかの屋内で、暖炉なんかもあり室温上昇、何となればTシャツに短パンなどの薄着で紅茶でも飲み、ときにクッキーなどを齧り齧りつつ降り積もる雪を優雅に眺めておりたい、さらに夜などはキャビアを肴にシャンペン、ワインを飲み、お家付きのコックの拵えるフォアグラや鹿肉のコース料理を食べながら高笑いする、という貴族のような暮らしを望んでみるが、まったく叶わぬ、算段すら立たぬので、とりあえずビールを呑みビールを呑んでから、ビールを呑んだ。

 後、焼酎を緑茶で割りつつ呑んでいて、腹が減ったのでタマゴサンドを買いに出、転んじまった帰り路に。

 今日も小雪の降りかかる。

 

2016.1.27記

ぽんどによろしく

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 仕事と私用が合併した感じで、ここ一年程、京都に月一回行っているがしかし、寺などに乗り込みこうべを垂れてみたり、仏像に手を合わせてガンガン願ってみたりという事を一度もした事がないのは何故かというと、主義主張があり断固拒否みたいな事ではなく、用事や仕事が終わるとただ誘われ呼ばれるがまま先斗町に参り飲食、酔っ払ってみたり、勢い鴨川で溺れかかったりしている事に非常に忙しく、神社仏閣に詣でるみたいな方向に時間が充てられないだけであり、はっきり言うておくと俺は親鸞好きだし、歎異抄などは何度も読み返してある、また都、京の歴史、文化や精神、ひいては科学、人智を越えた神秘、スピリチュアルな諸々を否定しないし、陰陽師の漫画読破したし、むしろ妖怪好き、河童などは普通にいると信じて止まぬキョンシー世代、実際、先日も自宅で寝てあったら激烈に金縛られたばかりである。

 俺は、夜半、二時、寝ていた。晩は多少、呑んでいたが、はっきり言って余裕、適量、睡眠の中途で要らぬ小用に立たぬレベル、明朝までグッドナイトという感じのベストコンディションであった。つまり幸福に通常睡眠していた。そんな夜、俺は縛された。頻繁にある事では無いけど、異常なほど無い事でもない。金縛といったって、しばらくの間身動きがとれぬだけで、知っていれば特に害はない、ただ今回は多少違った。

 狸であった。半目を開け見てみると、腹の上、座っていた。少し前からそこだけ妙にぬくかったのはどうもそのせいらしかった。

 さて注視観察して分かったのは眼を瞑りつつ何かを懸命に念じている様子、どうやらそれはお経を唱えているということ、かつ俺を金縛から解放すべくというのであるのが感ぜられたのは何故かというと、眉間にシワを寄せる真剣な面差し、実直な経の発声などの行為の確かな善的熱情がその姿に表れていたからだが、しかし単純に、であれば首尾よく万事解決へと信頼、と身を任せておけないのは、そのビジュアル面、存在のあり様であった。仰向けの俺の腹上、座した狸は現実にいる生物としてのそれではなく、アニメ様、童謡、日本昔的タッチで存在しており、全身全霊に事を行なっていてもなおコミカル、頭に葉っぱを乗せてある様な、此奴で大丈夫かな~、とその真剣本気を疑えるほどに、仮にいうと、他貫田ぽんど、みたいな感じの、少しゆるい容姿であったからである。がしかし、他貫田ぽんどはその様な俺の思案、不安の視線一顧だにせず、一心不乱、背を屈めアライグマの如くコチャコチャと胸前、諸手を擦り合わせ、俺を助くべくなお懸命に念じ続けている。

 身動きのとれぬ状態である以上、いずれにしても任せるしかないのだが、それ以上に気になるのは、ぽんどが何故俺を救援してくれるのか、という事である。

 記憶を巡ってみても、ぽんどはおろか狸と交歓したことさえまるで無く、強いて言えば数年前、渋谷円山町で、一瞬目が合い行き違ったくらいで他になく、かちかち山、分福茶釜などの絵本、あるいは緑のたぬきくらいの関係、思い出しかない。が、ぽんどは合点のいく理由の見つからぬままの宙ぶらんの俺には頓着せず、なお遮二無二、経を唱え念じ続けているのがへその上、雰囲気で分かる、俺は幼少の記憶を辿るべく更に深く内を想ったが、奇妙にも心地よく流れ続けるぽんどの調子、読経の旋律に揺れ、いつの間にか沈眠、目が覚めた時には、窓から陽が差していた。

 秋の爽やかな朝だった。身体の自由を取り戻していた。

 ぽんどの姿は無かった。寝返りを打って、俺はまた少し眠った。